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「宗教と紛争」

世界各地でテロや紛争は絶えず発生しているようだが、今朝の毎日新聞には、シリアの内乱、インド・パキスタンのカシミール地域での武力衝突、さらには北アイルランドの英国国旗掲揚の賛否に関する住民同士の衝突などが伝えられている。

これらの記事を見ると、シリアではアサド大統領を中心とするイスラム教シーア派の一派アラヴィ派とその圧政に反発するスンニー派住民との対立であり、インド・パキスタンの衝突の背景にはヒンズー教とイスラム教徒の宗教対立があるようである。また北アイルランドでは、かねてから英国統治を望むプロテスタント系住民と、アイルランドへの帰属を求めるカトリック系住民との根強い反目があるという。

かつて司馬遼太郎氏が、イデオロギーと宗教がとかく紛争を惹き起こしかねないと指摘していたが、まさに国家間の紛争や民族間の対立の多くは、その根底に宗教的反目があるようだ。

子どもが生まれたお宮参りをしてその成長を祈り、結婚式では教会で愛を誓い、死者は僧侶の読経で送る大半の日本人は、宗教にはまことに寛容で、その日常生活は無宗教に等しい。

歴史を遡ってみると、日本には古来、祖先神を祀る神道があるが、八百万(やおよろず)の神々といわれる多神教で、一神教のキリスト教やイスラム教から見れば、淫祠邪教のように思われるかも知れない。

しかし多神教なるが故の寛容さが、先進国からさまざまな文化を輸入し、今日の平和で豊かな日本を作りあげたと言えるのではないか。

こうした宗教観の相違はどうして出来たのだろう。

和辻哲郎先生の「風土」ではないが、中途の砂漠の中で生まれたユダヤ教やキリスト教は、過酷な自然環境の中で生活しなければならない人々にとって、必ず救済してくれる絶対神でなくてはならなかったのだろう。

これに対し温暖な気候と稔り豊かな自然に恵まれた日本人にとっては、四季折々の自然に順応してゆくことが、何よりも大切なことであり、その自然の恵みを授けてくれる諸々の神々を有り難く崇める身持ちになったに違いない。

宗教の真髄が排他性にあるとすれば、日本の神社参りは宗教とは言えないが、われわれは宗教に対する寛容性を持ち続けて良いものと思われる。

(平成二十五年 一月八日)

 

 

 

ramtha / 2013年2月22日