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物語 昭和人間模様 2

 昭和三〇年代から世界中で油田の開発が盛んに行われ、いわゆるエネルギー革命の波が押し寄せ、我が社でも炭鉱の合理化・閉山を余儀なくされるようになってきた。それにともなって従業員のリストラが行われることとなった。当時私は職員人事を担当する部署にあり、職員組合との折衝に苦労する日々を過ごしていた。

 石炭産業の衰退は、時代の趨勢で、組合としても容認せざるを得ないが、組合員が失職し路頭に迷うことだけはなんとしても避けたいという。

 当時セメント部門では、従来の袋詰め輸送から専用タンク車輸送へと変わり、ブロックやパイルといった二次製品加工工場が各地に創られる時代で、我が社でも生コンや高圧コンクリートなどの子会社が設立されていた。

 そこで給与は多少減収になっても、これら系列会社への転出や、折しも高度成長期にある他産業への就職斡旋でなんとか凌ぐことを提案、組合も諒承するに至った。

 そんなことで昭和三五年から、私は関係会社はもとより、学生時代の友人の勤務先企業を訪ね、その協力を要請するなど、就職斡旋に各地を飛び回ることとなった。

 そんなある日、福岡出張の車でたまたま城戸重役と同乗することとなった。快適な同乗者とは言い難いが、仕方がない。重役は後部座席に踏ん反り返って居るが、こちらは運転手の横の座席に小さくなっている。話しかけられることは無いに越したことはないがと密かに危惧していたら、案の定後ろから話しかけられた。

 「君は職員の就職斡旋で飛び回っているそうだが、成果はどうだ」と聞かれる。

 「求人される職種や年齢といった条件に該当するケースがなかなか見つからず困って居ます・・・」

 すると「経理の滝山などを出したらどうだ」と言われる。咄嗟に離縁した奥さんのことが頭をよぎったが、あまりに突然のことでびっくした。

 「いや、彼は優秀な経理マンで将来の経理部長候補とも期待される人物で、それはどうでしょう・・・」

 「そういうのを外に出して勉強させるべきだよ」としつこく言われる。仕方がないので

 「堀江経理部長のお考えもあるでしょうから・・・」

とその場のがれの返事をしてお茶を濁したが、傲岸な城戸さんにも目障りになるだけの心が残っているのかと、不思議に思ったことである。

 その後私には何も話はなかったものの、昭和三六年四月、原田文書課長から滝山君を東京樹脂㈱へ転出する手続きをするよう命じられた。裏で如何なる経緯があったか、およそのことは想像できたので、課長に尋ねることはしなかった。

 東京樹脂㈱というのは、昭和三四年に我が社の系列に入った会社で、神奈川県川崎市に在り、プラスチック製品の加工販売をする町工場である。我が社からは豊沢重役が専任社長として常駐しておられるほか、小林虎男・伝法 健氏等数人の幹部社員が転籍されておられた。また数人の社員を就職斡旋の対象として送り込んで居た。

 しかし長年筑豊で田舎暮らしをしてきた者には、人口の密集する都会への移住には、子供の転校や物価のことなど危惧が先立ってなかなか腰が上がらない。私自身が現地視察して同様の印象を受けたこともあり、転出対象者の説得にはとりわけ苦労したことである。

 さらに聞くところでは、従業員の大半が加入する労働組合は総評系の左翼組合で、頻発する職場争議で労務管理も容易ではないとか。

 私も自分が説得して送り込んだ社員の生活が憂慮されるが、遠隔の地ではあり、親会社の一管理職では如何ともし難い。また相次ぐ石炭部門の縮小で、今まで以上に社員の斡旋先を探さねばならない身としては、ただ前を向いて走り続けるしかない。

 昭和四二年会社分割で、私は麻生セメントの経理を託されることとなり、今度は資金繰りに飛び回ることとなり、麻生産業㈱の傘下に残された東京樹脂㈱のことは、私の関心事から消えてしまった。

(3へ続く⇒)

ramtha / 2014年11月10日