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物語 昭和人間模様 3

その後私は嘉麻運輸㈱勤務を経て昭和四十六年、㈶政策科学研究所出向となり、東京へ転居することとなった。
ところが長年田舎暮らしをしてきた私には、満員電車の通勤をはじめ息詰まる都会の生活が無理になったのか体調を崩してしまった。そこで定年前ではあったが、退職を決意した。しかし、それにはしかるべき後任を探さねばならない。
(財)政策科学研究所というのは、東京電力の木川田社長、ソニーの井深社長など日本を代表する財界人の肝煎りで大企業各社の寄付を基金とし、東大の向井坊教授ら日本の頭脳といわれる先生方が集まり、中央官庁の委託を受けて原子力問題など国の政策課題について研究し提言する財団法人である。
 
寄付金とはいいながら巨額な資金で、財界人の推薦で麻生太賀吉社長が財務委員長として資金管理にあたられることとなり、私が事務局に常駐、二~三人の事務員を指揮して事務処理をしていたわけである。
だから大袈裟に言えば事務局長は社長の名代で、後任は麻生の関係者であることが望ましい。しかし筑豊在住者に都会生活を強いることは、私の経験から言っても気の毒である。しかるべき人は居ないかと思案していたとき、ふと思いついたのが滝山君である。
 
滝山君は東京樹脂で随分苦労されていたらしいが、その苦労は報われることなく、業績は傾き先頃会社は解散、目下浪人の身であるらしい。
そこで東京支社長の麻生太喜蔵さんに相談の上、私の後任を滝山君にお願いすることとした。彼に快諾してもらったとき、私は長年心の底に澱(よど)んでいたものが、ようやく消え去った思いをした。
滝山君は(財)政策科学研究所が解散するまで二〇年近く勤務し平穏な晩年を過ごされていたようだが、今年二月人生の幕を閉じられたという。自分の人生にどのような感懐を抱いての他界であったかは分からない。
 
昭和二十六年だったか、本社労務課に勤務していたとき岳下炭坑に出張したことがあった。
岳下炭坑というのは長崎県北松浦半島の僻地にある小さな炭坑で、海に面した山の傾斜地に社宅が並び、景色は素晴らしいがまことに不便なところであった。
路線バスも通学時間帯の早朝と夕方にあるくらいで、出張の目的を終えた日は炭坑の宿舎に泊まり、翌朝、たまたま本社の経理主任会議に参加する大崎係長が乗る、炭坑に一台ある乗用車に便乗、佐世保駅まで送ってもらうことになった。
 
大崎係長は私より一〇歳ばかり年上の方であったが、明るい人柄で、戦時中は南方に派遣されご苦労されたようであった。初めて言葉を交わす間柄にもかかわらず、話題が豊富で、佐世保駅までの約一時間が短く感じられたことである。
車を降りて待合室へ入ると、そこで待って居られた奥さんを紹介された。奥さんもご主人の出張に合わせて、実家へ行かれるのだとのこと。そのため朝一番のバスで来て待っておられたらしい。
「そんなことなら私たちと一緒の車にされたら良かったんでは・・・」と尋ねると
「私は社用ですが、家内は私用ですから・・・」という。
「でも空席を利用するだけじゃないですか」
「理屈はそうですが、ご覧になったように岳下は不便なところですから、社宅の人はみんな出来れば会社の車に便乗したいと思っていますよ。そんなところで総務係長の私が家族を同乗させたら、示しがつかなくなりますから」と言われる。
 奥さんは少し離れたところできまり悪げな面持ちをされている。その時のお二人の姿が、爽やかな記憶として私の脳裏に深く刻み込まれた。
 
上三緒炭坑での実習生仲間に専門学校卒の山本某君というのが居た。実習終了後は赤坂炭坑の経理係をして居たが、山田炭坑の操業開始とともに山田に転勤、辻田総務係長の下で経理事務を取り仕切って居た。
 実習仲間でもどちらかといえば影の薄く目立たない存在であったが、もの固い人柄のようで、経理係には適任な社員ではないかと思っていたものの、畑違いの私は会えば互いに会釈を交わすくらいのことで、会話することなど無かった。
 
 ある日、本社経理課の久永君が、「山本は会社を辞めさせられたらしいぞ」という。理由は長年会社の金を使い込んでいたという。あの一見真面目そうな彼がと意外な感じであったが、それより、つい最近、岳下から山田炭坑の総務係長に転勤した大崎さんが監督不行届きで始末書を書かされたと聞いて愕然とした。
 「そりゃおかしな話じゃないか。実質的責任は前任の辻田さんが負うべきことではないか。」と尋ねると
 「俺もそう思うが、会社の規則では不正発覚時の係長の責任が問われることになっとるらしい。」という。
 「そんな無茶な・・・大崎さんを弁護してやる人は誰も居ないのか」
 「事件を知る経理の者は、みんな大崎さんに同情しているだろうが、誰も口を噤んで居るよ。みんなわが身大事のサラリーマンだからな」という。
 あの人一倍潔癖な大崎さんが、無念遣る方無い思いをしていることと推察されるものの、畑違いの平社員ではどうしょうも無い。結局は自分も我身大切のサラリーマンと同じではないかという思いが心の底に、澱(おり)となって溜まる不愉快な経験をさせられた。
 さらにその後しばらくして大崎さんは関係会社に転出させられたと聞いたが、慰める言葉も機会も無かった。
 それを境に、大崎さんとは年賀状を交換するだけの間柄となって行った。
 
 あれは昭和四十一年の十二月であったか、雪がちらつく夜、本社前社宅のわが家に大崎さんが訪ねて来られた。
 もう十年以上もなろうかという珍しい来訪に驚かされたが、足許も危なげなその酔態には、座敷に案内するとき不穏なものを感じたことであった。
 「忘年会をされたのですか」という私の問いかけに、テーブルの向こうに座る大崎さんの目はじっと私を見つめている。
 「どうされましたか」とかさねて話しかけると、
 「佐藤さん、貴方は会社の人事を預かる文書課長でしょう」という。
 何を言うために来たのか想いをめぐらしていると、
 「あんな人を重役にしておいていいんですか。」と私を睨み付ける。
 さては城戸さんのことかと推測がついたが、
 「なんのお話ですか」ととぼけると
 「城戸のことは貴方も知らぬことは無いでしょう。」と最早呼び捨てにする。
 最近、城戸重役が採炭機械などの業者からリベートを取っているという噂はあるが、城戸重役と大崎さんとは何も関係は無い筈で、大崎さんが問題にするのはなぜだろうと思いつつ、
 「さあ何でしょう。異常な出世をされると、出る杭は打たれるとかで、世間は何かといいますからね・・・」
はぐらかすと
 「賄賂は勿論ですが、人を死なせるようなことをして居る人をそのままにしておいて文書課長はないでしょう」と語気強くくってかかる。
 
 人を死なせたなどと初耳のことで絶句していると
 「彼が南方派遣社員の中で、一足先に帰国したことは貴方も知っているでしょう。そして彼が何をしたか知っているでしょう」という。
 もう二十年近くも昔のことで私は分からない。怪訝な面持でいると
 「貴方は戦後入社の若いころで、ご存じなかったかも知れませんが、現地残留社員の留守家族に現地の様子を知らせて廻ったことがあったんですよ。」
 「ああ、そう言われれば思い出しましたよ」
 「私は残留組でしたから帰国後聞いたことですが、そのとき彼はとんでもないことをしたんですよ。
 今は麻生建設㈱に居る小林はご存じでしょう。小林も私と同じ残留組でしたが、帰国してみたら待っている筈の女房が居ない。聞けば自分の留守中に母親が離縁したという。貴方はご存じないようですが、城戸が留守宅訪問のとき小林の女房に目をつけ関係したのが原因だったのです。
 そのことは、われわれ仲間は知って居ましたが、帰国後人が変わったようにものも言わなくなった小林の心中を思い、みんな口を噤んでいましたよ。」
 
 昔短歌会で見かけた小林夫人を思い出したが、あれほど夫の帰りを待ち望んでいたのに、どうしてそんなことになったのか。不思議といえば不思議だが、所詮男女のことは他人には分からないと思っていると
 「私は今まで城戸はもとより、小林を裏切った女房にも腹を立てていました。ところが今夜のセレベス会で、小林の女房は城戸に犯されたことで離縁され実家に戻ったものの、両親が亡くなってからは、居辛くなり上京したが、自立することもままならず五年ばかり前、自ら命を絶ったと聞きました。
 城戸の遊び心のために、小林は人変わりし、女房は自殺。その城戸は会社の重役でのうのうとしている。あんまりじゃないですか。貴方は人事の責任者でしょう。こんなことを放置していいんですか。」
と卓を叩かんばかりの勢いで迫る。
 
 初めて聞いた話に少なからずショックをうけたが、
 「私は職員人事を担当していますが、取締役の選解任は所管外のことで、どうしようもありません。しかしおっしゃられるようなことなら、きっとなんらかの天罰が下ることと思いますよ」
と応える事しか出来なかった。
 その後大崎さんが訪ねて来ることもなく、晩年どのように過ごされたかも分からない。
 
 城戸重役は、その後も何かと芳しからざる噂が絶えなかったが、石炭部門の最後まで見届けて退社されたと伝え聞いた。晩年は福岡に住まわれていたようだが最後を見取った女性は誰であったか分からない。
 若い頃は大崎さんと同じように、城戸さんの行動に被害を受けた人達に同情し、憤りに身も震える思いをしていた。しかし、この年になった今、もしあの戦争が無くて、城戸さんが望んでいた五郎重役のお嬢さんと結婚しておられたら、彼を取り巻くその後のドラマはどのような展開をしたことだろうかと考えてみる。
 
 あの艶聞に取り巻かれ、傍若無人を押し通した城戸さんの生涯も、運命に翻弄された不幸な人生の一つであったのかも知れない。
 麻生産業を退いて四十年、かっての先輩はもとより同世代の知人も皆あの世の人となり、昔語りをする相手はもう誰も居なくなった。ときに懐かしい顔を見ることはあっても、声をかけようとすると、その後ろ姿は消え、孤独の朝を迎えるばかりである。
 
夢うつつ 昭和は遠く なりにけり
 
(平成二十六年 秋)

 

ramtha / 2014年11月13日