筋筋膜性疼痛症候群・トリガーポイント施術 ラムサグループ

「第七話 賞与事務の合理化」

私が麻生に入社したのは、形式的には戦時中の昭和二十年一月一日となっているが、実際軍隊より復員して上三緒炭坑の実習に参加したのは、終戦直後の十月十六日であった。そんなことで、入社して暫くの間は戦後の混乱期で、ボーナスらしきボーナスは無く、お盆には灯籠代、暮れには餅代と称する僅かな包み金が支給されるだけであった。

ところが昭和二十五年に勃発した朝鮮戦争のおかげで、日本経済は特需景気に恵まれ、わが社でもようやく、昭和二十六年の上期の期末手当から、ボーナスらしきものが支給されるようになった。そのとき私も初めてボーナスというものを手にしたが、それは月収の一ケ月分くらいのものであったと記憶している。

それまでの灯籠代や餅代は、経理の窓口でごく事務的に支払われていたが、このときから職員のボーナスは、本社はもとより、出先の各事業所でも、重役が手分けして出向き、職員一人一人に手渡すようになった。

それとともに、職員ボーナスについては、その期における各人の勤務成績が査定され、賞与の支給額に反映されることとなった。

毎期、職員組合との団体交渉によって組合員一人当りの金額が決まると、それを基準として、所属長の勤務評定にもとづく成績査定によって、各人に対する支給金額が計算される。だが、成績査定など人事の機密にふれることなので、千人を越える職員全員の賞与計算事務を、僅かな人数の文書課課員だけでしなければならない。

私が文書課に移った初めは、何がなんだか分からぬまま、古参課員の広津女史の指図に従って、計算や読み合わせの単純作業の手伝いをしたに過ぎなかった。しかし、とにかく膨大な作業量で、連日深夜に及ぶ残業が続き、えらい目にあった。

そうした手伝いをしながら、今のやり方にはどうも無駄があるように思われた。そこで作業の合間に広津女史に私見を述べてみたが、彼女は「課長さんの言われるままにしとけばいいのよ。文書課に来たばかりで文句ばかり言わないの。」と、うけあわない。

各人の賞与金額の計算は、算式にしてみると

(本俸×一律支給率+本俸×成績別支給率)×出勤率ということになる。

団交で平均賞与金額が確定すれば、その半額は成績の如何に関係なく本俸にスライドして算出され、残りの半分は各人の本俸に成績等級別の支給率を乗じて算出する。

そして、両者の合計額に半期の出勤率を掛けて各人の支給額が決まるという仕組みである。

いつものことだが、団交で賞与金額が妥結するのは、支給期日ぎりぎりで、賞与計算に文書課長以下全員が連日残業を余儀なくされる。だから課長としては、交渉が妥結したら、すぐにでも全員を作業に掛からせたいわけである。そんなことで課員には、交渉妥結と同時に確定する一律分の計算にかからせ、その間に課長自身は成績査定の作業をしている。そして成績査定終了後、今度は成績別支給率による計算をさせ、その後、さきに計算した一律分との合計計算をさせている。

これではいくら時間があっても、たまったものでない。小学生の算数の基本である算式の整理をしてみれば、前記の算式は

本俸×(一律支給率+成績別支給率)×出勤率

に要約される。なお、成績査定による等級ごとに一律分支給率と成績別支給率の合計支給率を記入しておけば、あらためて合計計算の必要はない。

こうしてみると、いままでやってきた計算手順は

①本俸×一律支給率=(ア)

②本俸×成績別支給率=(イ)

③(ア)+(イ)=(ウ)

④(ウ)×出勤率=支給額

の四段階であったが、これが

①本俸×一律分を含む成績別支給率=(ア)

②(ア)×出勤率=支給額

の二段階となり、作業量は半減出来たわけである。

賞与支給の大仕事が終わった日、私はこのことを原田課長に説明して、作業手順の変更を提案した。私の説明に課長は暫し怪訝な面もちであったが、やがて「なるほど、そうですか。そうすると今までずいぶん無駄なことをしていたわけですね。」といとも素直に認められた。

早速賞与計算に用いられる計算用紙のフォーマットが改められることになった。そのとき、今ひとつ私が提案したのは、金額表示を従来の一円単位から千円単位に改め、三桁の0を省略することである。

従来も賞与額計算に当たっては、各人の本俸に支給率を乗じて算出される金額は、千円未満を四捨五入し、千円単位のラウンドナンバーとしている。だから計算過程における数字は初めから千円単位とし、下三桁の0を省略しても何等差し支えないわけである。

ところが、原田課長はこれにはなかなか賛同されない。下三桁の0が書かれてないと、どうもボーナスの気分が出ないということのようである。そこで私は、一人の賞与計算にさいして、計算用紙の上で二回、支給明細書の上で一回、都合最低三回金額を書くことになるが、その都度下三桁の0を書くとすれば、合計九つの0を書くわけで、職員千人では九千個の0(実際には計算用紙には裁定金額欄があるので合計四個、一万二千個の0)を無意味に書くことになると力説した。

また、それまで、賞与計算用紙の記入は、ペン書きされていたが、私はこれを鉛筆書きにするように提案した。ペン書きでは書き誤るとインク消しで修正するなど煩わしいが、鉛筆であれば、消しゴムでいとも簡単に修正できるし、書くのも速い。しかし、会社の文書はなぜかすべてペン書きとなっていて、ほんの一時的なメモ以外は鉛筆で書かれることはない。鉛筆は消しゴムで安直に修正出来るから、文書としての信頼性に乏しいと考えられているのだろう。そんなことで、これには課長はもとより、広津女史はじめみんな良い顔はしない。

その頃、何用があってことか忘れてしまったが、野見山君と二人で、土蔵造りの書庫に入ったことがある。そこには明治、大正時代の奮い書類が沢山保管されていた。それらの書類を何気なく見て、驚いたことには、ペン字のものは雨漏りにでも遭ったのか、滲んで判読出来なくなっている個所があるが、鉛筆によるものは、用紙は水に濡れて色変わりしていても、はっきり読み取れる状態で残っていることであった。私はそれらの古い書類を課長に示して、鉛筆書きの方が、保存の上でも信頼性が高いことを力説した。

いままでのしきたりや習慣を改めるのに、それを踏襲して来た人々からの抵抗は付き物だが、ものにこだわらない原田課長の人柄と、野見山芳久君、山門栄想君、山本操一君等優秀な課員の熱意と協力のおかげで、私の提案は実現され、また皆さんのアイデアも加えられ、賞与計算事務は著しく合理化されたこととなった。

私が文書課に移って間もなく、文書課のメンバーがすっかり変わり、野見山君以下新人ばかりとなっていた。だからそのときは、慣れぬ者ばかりで賞与計算業務を乗り切らねばならない。深夜に及ぶ残業は厭わぬものの、みんなに余計な疲労を与えぬため、その期間、会社の研修施設である太山荘で合宿することにした。

昼間は本社事務室で日常業務を処理し、退社のベルとともに、賞与関係書類と計算機を携えて、太山荘へ移動して深夜まで作業をした。若さに任せて深夜二時、三時まで作業することもあったが、変わった環境での協同作業に、修学旅行の子供のような楽しさもあった。

深夜作業が一段落したところで、寝床に入るのだが、夏の夜、蚊帳の中の寝床の上に車座になって、作業手順についてのアイデアを出し合い、夜がしらじらと明け渡るのも知らずに、ああでもない、こうでもないと討議したことであった。その時の興奮が、当時のメンバーのいきいきとした面影とともに、懐かしく思い出される。

ramtha / 2015年3月21日