筋筋膜性疼痛症候群・トリガーポイント施術 ラムサグループ

「第八話 二人の秀才」

わが社では戦前から家計の豊かでない学生に、学資を支給するいわゆる給費生制度があった。私もその恩恵を受けた一人であるが、給費生に関する事項は文書課の所管となっていた。

私が文書課で勤務を始めた頃も、何人かの給費生がいたようだが、その当時は、従業員の子弟を対象とする、どちらかと言えば、福利厚生的な性格のものであったような気がする。

上三緒での実習時代、懇意になった小鶴一男さんの弟三男さんも、当時わが社の給費を受けて九大医学部に在学していた。小鶴一男さんも、明専(現在の九州工業大学の前身)の鉱山学科出の秀才であったが、三男さんはそれにも増して、嘉穂東高校開校以来のと言う形容詞がつく、飛びきりの秀才であった。

彼が医学部を卒業し大学院に進むときだったと思うが、私は彼の成績表を垣間見て、驚いたことがある。私は仕事柄しばしば、飯塚病院に赴任して来られる先生方の成績表を拝見したが、多くは「良」または「可」の並ぶ中に、「優」がまばらに見られるというのが普通で、その中に一つ二つ「秀」があれば、余程勉強された先生というのが相場である。ところが小鶴三男君の成績表は「秀」が並ぶ中に「優」がまばらにあるという素晴らしいものであった。

彼がインターンとして飯塚病院の内科に勤務していたとき、その指導にあたった伊藤先生(勉強家で有名、後の飯塚病院長)も、彼の造詣の深さに感服し、「臨床経験以外に私が彼に教えるものはありません。」と私に話されたことであった。

その頃エネルギー革命と言う言葉が聞かれ始めていたが、昭和三十五年の三井炭鉱の大争議を境として、石炭産業に暗い影が急速に覆い始めた。時を同じくして、日本経済一般は、池田内閣の所得倍増計画に誘導される高度成長の時代にさしかかり始めていた。

そうした環境の変化で、わが社のような石炭会社では、優秀な技術系大卒社員の募集が次第に難しくなってきた。ことにセメント工場の将来を託する応用化学や電気工学、機械工学の大卒技術者を確保することは、極端に困難な状態になってきた。

そこで私は、優秀な学生に学費を支給することで、技術系大学生を育成し人材の確保をするよりほかに方法はないと考え、課長に進言した。課長も同意されて、早速最寄りの高校を訪問して、しかるべき生徒の推薦を依頼することとした。

そうした一連の学校訪問で、久留米の明善高校で松本先生にお会いした。松本先生は後に聞き知ったところでは「ベンちゃん」と言うニックネームで多くの生徒から慕われている先生ということであったが、初対面の私には一見飄々とした仙人のような風格に見受けられたことであった。

その松本先生に当方の来意を述べ、「この春大学入試に合格した生徒で、推薦頂けるような該当者はいないでしょうか」と尋ねた。すると先生は「今年の卒業生には該当者はいません。しかし、いまの二年生には是非推薦したい生徒が居ます。御社が給費を約束されるなら、その子に来春大学を受験させましょう。」と言われる。

だが来年のことでは果して大学入試に合格するか、その時になってみなければ、分からぬことではないかと、私は内心思ったが、折角ここまで足を運んで、松本先生と面識ができたのだから、この縁を切っては損だと考え、「来年、その生徒がわが社の希望する大学に合格できたら、そうさせて貰いましょうか。」と返事した。

先生はさらに「大学はどこを受けさせましょう。」という。その言い方は、どんな大学でも合格は当然と言った感じに受け取られたので、私も意地悪く「それでは東大工学部を受験させて下さい。」と応える。

すると先生は、いとも簡単に「承知しました。早速本人に伝えることにします。両親に死に別れて、伯母の厄介になっているので、進学は諦めているようですが、御社のことを話せばきっと喜ぶでしょう。」と、もうその子が東大合格も、給費生採用も決まったような口ぶりである。

来年のことではあるし、いままで受験勉強もしていなかったものが、現役で東大工学部など、とても無理だろうと、私は当てにする気はなく、儀礼的に「それではよろしく。」と挨拶して辞去した。

一年たって翌年三月、すっかり忘れていた松本先生から電話がかかってきた。「去年お話した子が東大工学部に合格しました。そちらにご挨拶に連れて行こうと思っていますが、何時がいいでしょう。」と言う。

突然の電話でびっくりしたが、それよりも、いとも簡単に難関と言われる東大工学部に合格した生徒というのは、どんな子だろう。頭は素晴らしく良いには違いないが、人柄はどうなんだろう。将来わが社の社員とするのに不都合はないだろうか。私は一度にいろいろなことが心配になってきた。こんなことなら、昨年この話が出たときに、人物や家庭環境など、もう少し詳しく調べておくべきだったと、自分の手抜かりが悔やまれた。しかし、今更ちょっと待ってくれとは言われない。仕方がないので、来社の日時を打ち合わせて、電話を切った。

約束の日に、松本先生はまだ童顔の抜けきらない小柄な生徒を連れて来られた。古賀悦之君というその生徒は、いかにも頭の良さそうな顔立ちであったが、性格も素直そうな好青年というのが第一印象で、私の不安はたちまち解消した。

給費生採用の手続きが済んだ後、師弟ともども大浦荘へ案内し、昼食をしながら歓談した。その席で松本先生は、古賀君に向い、「本日、君を麻生産業へお渡ししたので、これからは一切、会社の指示に従って行動するように。」と諭され、つぎに敷いていた座布団をはずして畳に両手をつき、原田課長と私に向かって「古賀君のことは今後一切お任せ致します。なにぶんとも宜しくお願いします。」と、深々と頭を下げられたことであった。

教養課程を修了し、専門課程に進むとき、古賀君は進路の指示を受けに来社した。会社としては、将来セメント工場の技術者と考えているので、電気、機械、または応用化学の何れかに進むことを期待しているのだが、私は東大ではどの学科が一番難関か尋ねてみた。すると応用化学と答える。しかも本人の第一志望も応用化学と言う。それでは応用化学へ進むようにと指示したが、彼は成績には自信があるのだろう、「承知しました。」と応え、少しも動じる風もない。

戦後の学制改革で、新制大学の専門課程年限が、旧制大学より短くなったため、旧制大学で履修した水準に達するには、大学院で学ぶ必要があると、かねて九大応用化学の麻生忠二教授から聞いていた。そこで古賀君の大学卒業前に田川工場の大坪工場長に、古賀君の今後について相談し、大学院修士課程へ進めることにした。

四年生の冬休みに古賀君を呼んでその旨を伝えると、彼は喜んでいたが、大学院への希望者が多く、選抜試験が行なわれているという。私は受験の手続きをするよう指示したが、大坪さんのアドバイスがあったので、そのとき化学の中でも有機化学を専攻するよう付け加えた。

こんなことを言うと笑われるかも知れないが、当時の私は、わが社の将来、セメント製造に代わるものとして、合成化学工業を心秘かに夢みており、古賀君をその時代の主役にと考えていたのである。(同じ頃、九大合成化学科にも給費生として古田昭男君を送り込んでいた。ちなみに古田君は後日本揮発油㈱に入社、同社エンジニアとして活躍している。)

古賀君は成績優秀のため、無試験で大学院に入学したが、大学卒業時の成績表は、小鶴三男君と同様、ずらりと「秀」の並ぶ中に、「優」がいくつか散在するというものであった。

修士課程修了後、古賀君はわが社のエンジニアとして活躍、後年、四十代の若さで取締役に就任、麻生泰社長の片腕として、さらなる活躍を期待されていたが、才子薄命の諺通り、平成五年正月、蜘蛛膜下出血で急逝してしまった。

私は麻生在職中、幾多の優秀な人材に出会ったが、小鶴三男君と古賀悦之君の二人は、なかでも特に素晴らしい秀才であった。しかし思い返してみると、二人の爽やかな人柄が、その才能に一段の輝きを添えていたように思われる。

ramtha / 2015年4月20日