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「第九話 就職斡旋」

つねに右肩上がりの成長を続けてきた日本経済も、バブル崩壊後は厳しい不況の風に曝されて、到るところでリストラなどという言葉が聞かれるようになったが、今年(平成九年)はとうとう拓銀や山一の倒産を見る事態に立ち到った。木枯しの吹く年の瀬を控え、倒産企業に働く従業員の失業が社会問題となっている。

神武景気とか岩戸景気とか言われた時代に育ち、就職にあたっては金の卵などと言われてちやほやされ、一昔前の人間考えられない高給を、当然のごとく貰って来た人達は、突然の失業で戸惑っているに違いない。

振り返って見ると、私の入社以来、麻生では幾たびも人員整理があったものだ。昭和二十二年、二十四年、二十六年と隔年ごとに職員の馘首が行なわれたので、「偶数年は首切り年」などと言われたものである。

戦時中の人手不足から、ずいぶん無理な人員補充をしていたので、質の落ちる職員を少なからず抱えていたようだが、終戦とともに応召者が復員し、世の中が落ち着いてくるに従い、余剰人員が目障りになってきた。

終戦後間もなく、多くの企業で労働組合が組織されたが、麻生でも行員の労働組合に続いて、ホワイトカラーで組織する職員組合が作られていたから、職員の整理は職組との団交で討議され、その承認を得て行なわれた。組合幹部は、もちろん組合員の解雇には反対の立場をとり、抵抗をこころみるが、わが社が自然条件に恵まれない炭坑を抱え、競争力の弱いことも承知しているので、最後は、犠牲となる人員を出来るだけ削減し、退職金の上積みをするなどの条件闘争に努力することとなる。

当時の組合幹部であった長熊夫氏が後年、私にこんな話をしたことがある。

「一年おきに人員整理をするのだから、二、三度やれば、勤務成績の悪い職員は居なくなってしまう。もう整理はしなくていいでしょうと、渡辺常務に言ったら、常務がなんと言ったと思う?長さん、あんたの家でも毎日掃除するじゃろう。会社も同じ。定期的に掃除をしよらな、すぐゴミが溜まるものじゃ。と言われたことやった。」

今時こんなことを言ったら、たちまち人権無視と非難されることだろうが、その頃はそんな発言がまだまかり通る時代であった。しかし、労働組合の勢力が次第に強くなるにつれ、会社の一方的な指名解雇は許されなくなり、退職金にプレミアムを付けて退職希望者を募集する、いわゆる希望退職へと移ってきた。

だが、会社としては、給料のわりに業績の上がらない高齢者や、勤労意欲の乏しい成績不良の職員にやめて貰いたいのであって、給料が安く元気のよい若者や、有能な人間に退職されてはリストラの意味がない。また職員組合にしても、有能な仲間が出て行って、無能な者ばかりが残ることになれば、会社は立ち行かなくなり、ひいては組合員全員が失職する事態を招きかねない。そこで希望退職とはいいながら、内実は会社と組合の希望する希望退職が行なわれることになる。言い換えれば、希望退職の名の下に、実は退職を希望しない人が職を失い、家族ともども路頭に迷うことになるわけである。

最終的には労使双方が妥結して行なわれた人員整理であっても、何人かの職員が職を失い、本人とその家族が苦境に立たされるのはもとより、労使双方の関係者もまた悩み苦しむことに変わりはない。

昭和三十四年の人員整理の後、職員組合の幹部から次のような申し出があった。

「エネルギー革命が今後も進行して行く限り、非能率炭坑の縮小、閉山は避けられないことは組合としても認めざるを得ないし、それに伴う職員の人員縮小には協力するつもりである。しかし、組合員が職を失い、家族ともども路頭に迷う悲劇は避けて貰いたい。そのため、今までのような一斉首切りはやめて、今後は就職斡旋により逐次人減らしを進めるようして貰いたい。」と言うのである。

他方、当時のセメント業界では、従来の袋詰め輸送から専用タンク車によるバラ積み輸送へと移行する時期であり、さらには生コン工場からミキサー車で、建設現場へ直送する時代となりつつあった。わが社でも、各地に生コン工場やサービス・ステーションが建設され、その要員を必要とするようになってきた。また、セメントの販売手段としてコンクリート・ブロックやヒューム管など、二次製品の会社が設立され、そこでも人手を求められることとなった。こうした事情に助けられて、炭坑の縮小、閉山による余剰人員を、ある程度穏便に配置転換し得ることが見込まれた。

そこで職員組合の要望を容れて、就職斡旋による職員の人員削減をはかることとし、その場合の退職金のプレミアムなどの条件について団交交渉が行われた。

当時の職員組合の幹部は、戸塚組合長、瓜生副組合長、上森事務局長というメンバーであったが、退職条件について何度折衝したことか。幾たびもの交渉の末、合意に達し、「就職斡旋協定」が締結された。昭和三十五年のたしか五月のことであった。

協定が成立したことを太賀吉社長に報告したとき、社長から「よくやった。」と珍しくお褒めの言葉を頂いたが、凡愚のかなしさ、これが苦労の始まりであろうとは気がつかなかった。

従来の人員整理の場合は、整理対象者の選定と、組合との団交には苦労するものの、交渉が妥結すれば、本人への申し渡しはそれぞれの所属長を通じることで、事務的に進めればよかったが、今度の場合は、その都度所属長、組合幹部並びに、斡旋先の了承を取り付け、本人を説得しなければならない。

就職斡旋だから、失業するわけではないが、本人にしてみれば、慣れ親しんだ職場を離れ、多くの場合知らぬ者ばかりの世界に投げ込まれるわけであり、プレミヤ付きの退職金が支給されるものの、給与は大幅にダウンするのだから、快諾出来る話ではない。

炭坑の先行き望み薄いことなど、半ば脅しめいた話をし、つとめて転出先の職場の明るい話題で希望をかき立てるなどしたものだが、職務上のこととは言え、女衒まがいの自分の口説に、これでは来世は地獄行きだと思ったことであった。

それでも、麻生の系列会社に斡旋するときは、行き先にかっての同僚や知人が居るなど、安心感があるが、松島炭坑や北炭夕張など、全く別の会社へと言うことになると、給与は多少良くてもなかなか踏み切れるものではない。

松島炭坑㈱には、私の福岡高校時代の級友が人事課長をしていた縁で、わが社の採鉱係職員を数名採用してもらった。その折、若い採鉱係を連れて池島を訪れたことがある。佐世保から池島に向かう船上で、彼は果てしなくつづく水平線を凝視して立ちつくしていたが、その後ろ姿には言葉をかけるのが憚られる思いがした。東支那海に浮かぶ周囲一里にも満たない絶海の孤島に、彼を置いて帰りの舟に乗ったとき、何か後ろめたい思いに襲われたのはどうしてだろう。斜陽産業の人事担当者とはつくづく因果な仕事と思われたことである。

ramtha / 2015年4月20日