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「第十話 酒徒行伝」

上三緒炭坑での実習生仲間に、泉正直君(仮名)がいた。たしか山内炭坑の鍛冶屋の息子ということだったが、大分経専を卒業したばかりで、まだ童顔の残る明るい好青年であった。

実習終了後、本社企画室に配置された時も一緒だったが、その頃はお互いまだ独身だったので、よく一緒に酒を飲んだりしたものだ。同じ職場に花村清一さん(故人)や田中耕介さん(現飯塚市長)といった、これまたいける口をもった先輩がいたので、安月給にもかかわらず四人でよく飲んだことである。

今から考えてみると、あの頃の給料でどんなやりくりをしていたのか、自分でもよく分からない。給料日になると、飲み屋の女将が会社まで掛取りにやってきて、給料の大半は持っていかれたものだった。私は職員寮で起居していたから、給料日に一文無しになっても、食事にだけは困らない。花村さんと泉君も自宅住まいの独身者だから、これまた安気なことだったに違いない。

しかし、田中さん一人は既婚者で、当時大日寺の借家にお腹の大きくなった奥さんと暮らしていた。だから彼だけは、給料日に手ぶらで帰宅するわけにはいかない。年長の花村さんが、飲み屋の掛け支払いで、すっかり軽くなった私と泉君の給料袋を出させ、三人の残金をかき集めて田中さんへ持たせて、なんとか奥さんの前を繕うようにしていた。

給料日の退け時、帰り支度をしながら、田中さんが、「今日は女房に山内一豊の妻の話をするか、それとも梅田雲浜の物語を聞かせるか。」と言いながら苦笑していたのが思い出される。

その頃、実習生仲間の小鶴一男さんが結婚することとなり、親しくしていた仲間でお祝をすることになった。もともと気のおけない間柄だから、何が欲しいかと尋ねたら、酒がいいと言う。当時は戦後間もない頃で、よろず配給制度の時代であった。酒も統制品で、結婚に際しては、たしか五合ばかりの特別配給があったが、たったそれぽっちでは、三三九度に、親族固めの杯をしたら、ほとんど無くなってしまう。友達を呼んでの披露宴など出来たものではない。しかし、何時の世でも裏道があり、炭坑住宅の片隅では、マッカリと称する密造酒がひそかに造られていた。
上三緒の実習生時代、報国寮に日野の小母ちゃんと呼ばれる小柄な賄婦がいたが、彼女は密造酒のルートに通じており、彼女に頼みさえすれば、マッカリを容易に手にすることが出来たものである。そこで、今回も彼女に電話で依頼し、指定された日に、友達仲間で出し合った祝い金を預かって、泉君と二人、上三緒の報国寮までマッカリの受取に出かけた。

本社での勤務を終えてから出かけたので、上三緒で日野の小母ちゃんからマッカリを受け取った時は、早春の夕日は沈み、夜風が肌に冷たく感じられた。
一升瓶六本のマッカリをそれぞれ三本づつぶら下げて、山内炭坑の中を抜け、立岩小学校(現在の飯塚二中)近くの小鶴さんの家まで運ぶ。初めはそれほどのことでもなかったが、一升瓶三本は、次第次第に重みを増して来る。喉も乾いてきたが、途中で休憩してお茶を飲ませて貰うようなところも無い。
「泉君、どこか休ませてくれる適当な家はないかね。」と尋ねると、
「それなら、すぐ先の中島の五郎重役のお屋敷内に、田中耕介さんが居ますよ。」
と言う。そうか、そう言えば田中さんはこの頃こちらに引越ししたと聞いていた。それは丁度良い、ちょっと休ませて貰おうと思ったのが、後で考えて見ると、大失敗のもととなった。
重いマッカリの瓶をやっこらさと持ち込み、
「田中さん、ちょっと水を一杯飲まして下さい。」と頼む。
「なんだ、お前達か。今どき何事だ。ところでそこに抱えているそりゃなんだ。ん?ドブロクじゃないか。そんなもの持って何処まで運んどる?」と聞かれる。
「小鶴さんの結婚祝いですよ。」
「そうか。しかし、六本も担いで、ずいぶん重かろう。ここで少し軽くして行ったらどうかね。」
「いや、そういうわけにはいきませんよ。これは友達みんなの祝儀ですから・・・」と断るが、
「なに一本ぐらい、いいじゃないか。俺に見せびらかすだけ見せびらかして素通りとは、そりゃあんまりじゃないか。」としつこく食い下がられる。
われわれも夕飯抜きで重量物を運搬し、喉も乾いたところである。「泉君、一本ぐらいならいいか。」と同意を求めると、もともと嫌いではない彼のこと。一も二もなく賛成する。
「そうと決まったら玄関先じゃ具合が悪い。まあ上がれや。」と田中さんはいそいそと勧める。早速奥さんに湯呑を出させて酒盛りとなる。
初めは一本だけのつもりが、そうなると止まらない。田中さんが自慢の喉で歌ったり、奥さんが青柳を踊ったりされているうちに、気が付いたときは、空になった瓶が六本畳の上に転がっていた。
今更後悔しても始まらない。翌日は泉君と二人で金を出し合って、二日酔いでズキズキ痛む頭を抱えながら、今一度上三緒までマッカリを買いに行った。しかし、帰りは前日の失敗にこりて、山内・中島経由は敬遠し、多少足元は悪いが、鉄道線路沿いに、小鶴さんの家まで運んだ。
小鶴さんの結婚披露宴の席で、われわれが運んだマッカリを前にして、泉君と二人で、「ずいぶん高い祝儀だったなあ。」と小声でぼやいたことであった。

その後、泉君は経理、私は労務畑と進路を異にしたので、顔を合わせたときに挨拶を交わすくらいで、親しく杯を交わす機会もなかった。
彼が本社経理から田川工場の経理に転勤し、現地の部課を掌握するために、彼らとしばしば酒を飲んでいるという噂を耳にすることがあったが、労組の強い田川工場でだいぶ苦労しているなとは思ったものの、それ以上気にすることは無かった。

その後、彼は再び本社経理部に復帰していたが、その時の移動は、堀江経理部長の思い付きによるもので、経理課長の関知しないことであったらしく、彼はしかるべき業務も与えられず、窓際族のような処遇を受けていたようである。当時、私は文書課長をしていたが、そうした事情は分からぬまま、彼が快々として楽しまざる心境にあるのではないかと気にはなっていた。

そうしたある日、私が湯呑み場で喫煙しているところに、彼が近寄ってきて、「今晩、話を聞いてくれませんか。」と言う。何かわからぬものの、深刻な話のように思われたので、人目につかぬよう街の小料理屋で会うことにした。
その日の彼の話は、今わが社では、就職斡旋協定によって、職員の減員転出がはかられているが、自分をその対象者として、しかるべきところへ出して貰いたいと言うのである。
就職斡旋と言うのは、失業こそしないものの、多くの場合大幅にベースダウンしての転職で、誰しも自ら希望する者はいない。それを自分から言い出すのはどうしてかと尋ねると、借金が溜っているので、この際退職金で一括整理したいのだと言う。
病気休職したわけでもなく、どうしてそんな借金が出来たのかと尋ねたが、彼はそれについては、余り詳しい説明はしなかったが、どうも田川時代の飲み屋のつけが溜り、転勤時にそれを精算するため高利貸の金を借り、それが雪達磨式に大きくなったということらしい。
借金の精算のために会社までやめなくても・・・と言ってみたが、この際職場も変わり、心機一転したいと言う彼の気持ちも分かるような気がしたので、希望に添うようなんとかしようと言って、その日は別れた。

昭和三十八年一月、麻生産業では、本社資材部門を麻生商事㈱へ移管することになり、それに伴って多数の社員が就職斡旋協定の取り決めに従って、転籍することとなった。その折、泉君もその一人としてわが社を退職、麻生商事へ移って貰った。
多くの人が深刻な顔つきで退職辞令を受け取っている中で、彼は退職金でそれまでの借金を精算し、気分一新したのか、むしろ明るい表情であった。
彼は麻生商事の阪南事務所に勤務することになり、大阪へと旅立って行ったので、その後は顔を合わせることもなく、彼はやがて私の関心の外に姿を消して行った。

つぎに彼のことを耳にしたのは、彼が不始末をしたと言う、よからぬ噂であった。麻生商事の人事担当に尋ねたところでは、阪南事務所は新設のごく小さな事務所で、責任者の彼の他には、女性の社員がいるだけで、金庫の設備もなく、当日の売上金などの現金は、責任者である彼が、退社後銀行の夜間金庫に納めることとなっていたらしい。
事務所は堺市の埋立地にあって、周囲は殺風景な工場団地であったが、銀行への道筋には、灯ともし頃ともなれば、そこここに紅提灯がぶら下がり、客の袖をひく嬌声が飛び交う飲み屋街が待ち受けていた。
かって酒で借金をつくった前科のある彼としては、いつも耳を塞ぎ、目を瞑るようにして、その街を通り抜けていたに違いない。しかし、なにしろ毎日のことである。もともと酒好きな彼が、その街で足を留めたとしても、不思議はない。
自分の金で呑むのに、なんの遠慮がいるものか。彼は内心そうつぶやいていたことだろう。たしかにその限りにおいて問題はなかった。
だが、ある日その街で飲み、さて勘定となったとき、財布の金では足りないことに気が付き、彼は酔いもさめる思いがした。生まれ故郷の飯塚ではない。見知らぬ街の見知らぬ店で、ツケはきかない。どうする。そのとき鞄の中に、今から銀行の夜間金庫に納めるべき金があることを思い出した。自分の金ではない、会社の金だ。だが、今晩一晩だけ借用するのだからいいではないか。明朝には自分の預金をおろして埋め合わせしておけば差し支えないではないか・・・。彼はとりあえず会社の金を寸借して、その場は支払いをすませ、翌日誰にも気付かれることなく、なんとか無事に埋め合わせをした。

彼は今まで飲み屋のツケを溜めたり、そのために高利貸しから借金をしたことはあったが、寸借とはいえ会社の金を流用したことは一度もなかった。翌日からは、銀行へ行くのにその街を避け、新しい埋立地の方へ回り道することにした。
しかし、その道はまだ舗装されてないので、雨の日にはぬかるんで、歩かれたものではない。その日、彼はつい近道をしてあの街を通り、袖をひかれるままに暖簾をくぐった。そしてその日からまたその街を通り、ともすれば暖簾をくぐることとなってしまった。やがて勘定の足りないときは、公金を寸借するようになり、遂には埋め合わせがつけきれない金額になったものらしい。
その挙げ句、期末の棚卸しで彼の公金流用が明るみに出たということのようであった。本来ならば、彼は即刻懲戒解雇となっても致仕方ないところであるが、当時の麻生太三郎社長の寛大なはからいで、表沙汰にすることなく、商事の孫会社に転勤という処置がとられたと耳にした。

私は彼について弁護する立場にもなかったが、田川転勤以来、彼は不運につきまとわれていたように思われてならなかったので、穏便な処置がされたことを、彼のためにひそかに喜ぶとともに、彼の再起を祈らずには居られなかった。
しかし、私の願いは空しく、その後彼は次の職場でも不始末があって、とうとう退職させたれたと、風のたよりに聞き知った。その後は彼の消息を聞くこともなく歳月が流れた。

それから何年くらいたってからのことだったろうか、ある日、泉君の後輩に当たる労務課の百津昭四郎君から次のような話を聞かされた。
「昨日、博多の呉服町の交差点で信号待ちをしていたところ、頭の上から自分の名前を大声で呼ぶ者がいるので、そちらを見ると、なんと、あの泉さんじゃないですか。それも驚いたことには、大型ダンプトラックの運転台から手を振っているんですよ。首にタオルを巻き付け、くわえ煙草をして、トラックの運ちゃんがすっかり板についた感じで、呆気にとられたことでした。まだ何か話そうとしたのですが、信号が青になり、泉さんは、〈達者でな〉と一言大声で怒鳴って、そのまま走って行ってしまいました。」
その後、彼の消息は絶えて聞かない。              (平成十年一月)

ramtha / 2015年8月27日