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「第十三話 親分気質」

私が文書課に勤務していた昭和三十年代の麻生の重役さん方は、吉鹿常務、高木常務、熊谷重役など太賀吉社長と同年代の方が多くおられたが、みなさん謹厳実直、どちらかと言えば地味なお人柄のように見受けられたことであった。その中で一人異彩を放っていたのが日高重役である。

日高さんも社長と同年代ではあったが、吉鹿さんはじめ、皆さん人事・労務または経理畑出身の方々であったのに対して、日高さんは主として購買・営業といった対外折衝の多い仕事に携わってこられた方で、見るからに闘志満々、風貌も森繁久弥ばりの我が社には珍しくダンディな方であった。

私は実習生の時、ただ一度、当時用品課長であった日高さんから生活用品購買業務についての講義を聞いたことはあったが、仕事の上でも接する機会はなく、えらく勇ましい上司で、仕える部下はずいぶん気苦労しているのではないかと、遠くから眺めていたに過ぎなかった。

あれは、確か昭和三十四年の暮れのことだった。当時は世界的に油田が大量に開発され、石炭から石油への、いわゆるエネルギー革命が日本の石炭業界へ押し寄せてきた時代で、我が社でも傘下炭坑の閉山縮小が進められ、それに伴う機構革命ならびに職員の人員整理についての団体交渉が行なわれていた。

私は文書課の課長代理として、原田課長とともに、職員組合との折衝に連日神経をすり減らす毎日を過ごしていた。当時の記録を読み返してみると、十月末に折衝を開始した組合との団交は前後十三回に及び、十二月一日漸く妥結、直ちに退職者に対する退職金の計算や、機構改革にともなう人事異動に関する事務に取りかかったが、時あたかも年末のボーナス計算事務と重なり、連日深夜に及ぶ残業をしている。

例年、炭坑会社の歳末ボーナスは、世間一般より遅く、十二月半ば過ぎて支給されていたが、その年は前述のような事情で、暮れも押しつまった十二月二十六日(土)に支給することとなった。

我が社では職員に対するボーナスは、本社重役陣が手分けして各事業所へ出向き、職員一人一人に親しく手渡す慣習で、東京支社・大阪支店へは、営業部長の堀江重役が、関係先への年末の挨拶回りを兼ねて、出向かれるのが恒例となっていた。そこで、その旨堀江重役へお願いしたところ、堀江重役は年末の二十八日、即ち翌週の月曜日に行くので、そのように手配せよとのことであった。

二十六日でも例年より遅いのに、東京・大阪については、さらに遅らせて二十八日とするのは、如何なものかと気になったが、年末多忙な営業部長に、スケジュールの変更をお願いすることもむつかしい。やむなく、その旨を大阪支店の笠総務課長に電話した。
笠さんも「二十八日ですか。堀江重役の都合ということでは仕方ないですな。」と、しぶしぶ応えてくれたと思った途端、電話は支店長の日高重役に変わり、物凄い剣幕で怒鳴りつけられた。
「本社じゃ二十六日にボーナスを渡すんじゃろう。なんで大阪は来週の月曜日まで待たにゃならんのか。二十七日は年の瀬最後の休日やないか。家族ずれで年越しの買い物するのを、みんな楽しみにしとることぐらい分かり切ったことやないか。前日の土曜日に支給してこそのボーナスやないか。貴様っ人事を担当して、そんくらいのことが分からんか。堀江の都合でボーナスを待たせるなんちゅうことがあるかっ!。堀江が来られんなら、貴様が持って来い!。ボーナスは重役が手渡さにゃならんち言うのなら、俺も重役じゃ。俺がみんなに手渡してやるっ!。なんとしても土曜日に間に合わせろっ!」

言われてみれば、まさにその通りで返す言葉も無い。しかし明日の支払いに間に合わせるには、今夜の夜行列車で運ばねばならない。明日は全社のボーナス支払い日で、私は席を空けるわけにはいかない。受話器を手にしたまま、なんとしたものかと思い巡らしていると、そばから野見山君が「私が行きましょう。」と申し出てくれた。

実はその日の夜は、このところ多忙を極めた文書課一同の息抜きを兼ねて、忘年会を予定していた。その夜に野見山君一人を出張させるのは、まことに忍びないことではあったが、やむなく彼に急使に立ってもらった。

野見山君はその夜、我々が忘年会で飲みかつ歌っている頃、東京・大阪・名古屋各支店職員のボーナスを腹に巻きつけて、寝台特急列車の中で、襲い来る睡魔と戦いながら、一睡も出来ない過酷な時間を耐えていたことであろう。

後日、野見山君の話では、翌朝無事大阪駅に到着したとき、日高重役は笠課長を伴って、フォームで出迎えてくれ、ねぎらいの言葉をかけて下さったという。 また、その日の午後には、無事ボーナスが届き、職員全員に支給出来た旨、日高さんから電話を頂いたことであった。

あれは機構改革に伴う人事異動があった直後のことだから、多分、昭和三十五年の初頭のことではなかったかと思う。珍しく定時退社して我が家でくつろいでいたところ、日高さんから電話があった。今、街の料亭にいるが、その席へすぐ来いと言うのである。

すでに夕食もすませていることではあるし、大先輩と杯を交わすのは、いかにも気の重いことではあったが、重役のお呼びとあっては、駆けつけないわけにはいかない。受話器に響く日高さんの口調からは、なにかまたお叱りを受けるのではないかと悪い予感がした。
指定された料亭へ来てみると、日高さんは石炭販売課長のY氏と二人であったが、もうずいぶんアルコールの入った様子に見受けられた。

私が酒席につくと、まずは私に杯を持たせ、酒を勧められながら
「佐藤君、Y君にいったいなんの落ち度があったというのかね」。
といきなり聞かれた。私は突然の質問に如何に応答すべきか戸惑って居ると、横からY氏は
「重役、もうその話は止めて下さい。」
と止めようとされた。しかし日高さんはなお
「どうして支店長から本社課長に左遷されたのか、君は文書課に居るんだから知っとるじゃろう。」
と、重ねて詰問される。
実は先頃の人事異動で、Y氏は若松支店長から本社石炭販売課長に転勤したばかりである。

我が社の職制では、支店長は営業部長の指揮下にあり、給与規定における役付き手当ての額では、本社の課長と同等である。しかし、支店長は一国一城の主であり、その権限は大きく、本社の課長よりは一段上に見られ勝ちであった。だからY氏の発令があったとき、私自身いささかY氏に気の毒な人事ではないかと、心密かに同情したことも事実である。
しかし、その時の機構改革は、職制の簡素化を企図し、次長や課長代理などというポストは、極力減らす方針であったため、従来なら次長兼課長とされたであろうY氏も、単なる課長に留め置かれた模様であった。
そこで私は
「私は一介の課長代理に過ぎず、人事の機密は知るよしもありませんが、給与規定の上では、支店長と本社課長とは同格となっています。だから支店長から本社課長への転任は、栄転でもなければ左遷でもなく、いわゆる横滑りでしょう。Yさんの転任もその一つで、特に気を回されることはないのではないでしょうか。」
と私見を述べたが、
「それは屁理屈じゃ。営業の者は支店長と本社課長が同格など誰一人思うとらん。みんなは、Y君に落ち度があったと思うに違いない。それじゃY君の立つ瀬がないやないか。左遷ではないと言うのなら、今からでも次長へ昇格すべきやないか。」
と言われる。
私としては返事の仕様もないことで困惑していると、日高さんは更に、
「これはY君一人の問題やない。公正な人事が行なわれなければ、社員みんなの志気に関わる。文書課長や営業部長に話しても埒があかんと言うのなら、俺から社長に申し上げる。」
と顔を赤くしていきまかれる。

私は、発令済の人事について社長へ直訴するというのはいかにも穏当ではなく、Yさんのためにもならないのではないかと申し上げたが、納得されたようには見受けられない。私を相手にしても、それ以上の進展はないわけで、後は杯の遣り取りでその日はお開きとなった。

素面(しらふ)に戻られたら、日高さんも考え直されるに違いないと思ったが、親分気質の日高さんのことだから、社長への直訴もやりかねないようにも思われ、気にかかってはいたが、直訴されたかどうかは分からぬまま、日高さんは大阪へ帰られた。

その後しばらくして、社長が
「日高に自分の不満を言わせるとは、Yは男らしくない。」
と言われたという話を耳にした。

私が密かに心配していたように、日高さんの親分気質は、ひいきの引き倒しとなったようである。かと言って私がYさんのために社長に弁明するのも筋違いのことであり、また敢えて弁明したとしても、社長の誤解を解くことはおろか、Y氏に対する社長の心証をより一層悪化させる虞れがある。何時の日かY氏に対する社長の心証の好転することを、私はただ念じるのみであった。

Y氏はその後、業界団体へ出向されたが、定年退職後は町内会長を勤めるなど、その円満なお人柄で地域社会に貢献されておられることなど耳にしたが、今も穏やかな老後を過ごされているようである。

ramtha / 2015年10月6日