筋筋膜性疼痛症候群・トリガーポイント施術 ラムサグループ

第四話「肺尖カタルと気胸療法」

麻疹、赤痢、ジフテリアその他もろもろの病気をしたが、とりわけ長期にわたったのは肺結核を患った時で。小学校の三年から四年にかけて一年間自宅療養をした。

当時は肺結核とは言わず、肺門リンパ腺炎とか肺尖カタルとかの病名が付けられていたようである。抗生物質も無く肺葉切除のような外科療法もない時代であったから、専ら栄養と安静に、清浄な空気を呼吸する大気療法、さらには日光浴といって自然療法に頼るのがその頃の治療法であった。私の場合はたまたま明治小学校の校医であった宮下博士が当時ドイツに留学して気胸療法を学んで帰国したばかりの時で、その気胸療法を受けることとなった。医学的な理論は私には分からないが、背中から針を刺し込みその針の管を通して空気を肺に送り込んで結核の病巣を押しつけ固まらせる治療法ではなかったかと思う。

宮下博士は明治鉱業の勤務医でだったのであろうか、戸畑の明治鉱業の社宅に住まわれていたので、その社宅に二週間毎に通って気胸療法を受けた。針を刺しこむ時の痛さも次第に慣れてくるとさほどの事では無かったが、空気が送り込まれる一時間ばかりの間じっと動かずに寝ていなければならなかったのが辛かった。後添いの若い奥さんが看護婦代わりに、かいがいしく先生の手助けをなされていた。

宮下先生御夫婦にはその後も大変お世話になったが、昭和二十年の北九州大空襲の夜、自宅の防空壕に直撃弾を受け、御夫婦ともども亡くなられたということである。立派な先生と優しい奥様に今一度お目にかかりたいものであった。

軽症の肺結核には特に自覚症状らしいものも無いので、ただひたすら安静にしていることは、十歳の幼児には耐え難い修行であった。熱があるわけでなく、頭痛がするというものでもないので、終日病床で暮らす退屈を紛らわすには読書しかなかった。テレビはもちろんのことラジオも当時は一部のお金持ちの家にあるくらいで、わが家にはまだ無かったから気を紛らすには読書しか無く、新聞は隅から隅までそれこそ広告の端に至るまで読み尽くした。

その他の読書と言っても、今のように沢山な雑誌や単行本があるわけではなく、子どもの雑誌としては講談社の少年倶楽部、少女倶楽部、それに少し年長者向きの「譚海」というのがあったぐらいだ。少年倶楽部が配達された日はまことに楽しい一日であったが、一日で読み尽くしてしまうので、翌日からは同じものを繰り返し読むほかはない。仕方が無いので学校の教科書を読み、父が私のために取り寄せてくれた教師用の教科書を見て先へ先へと勉強した。お陰で一年ばかり休学していたが、病後登校してみたら、学校の授業進度より進んでいたので勉強で困るようなことはあまり無かった。

なお当時あまり読むものを欲しがるので、父が少年少女講談全集を取ってくれたり、古本を買ってくれたりしたことを覚えている。小学校三年生では、父も与える本に苦労したことと思うが、ゲーテのファウスト(たしか新渡戸稲造訳のものだったとおもうが)を読まされて何がなんだか全く理解できなかったことを思い出す。夏目漱石の「坊っちゃん」、徳富蘆花の「思い出の記」、山本有三の「波」、大佛次郎の「赤穂浪士」や吉田弦二郎の小説等も当時病床で読みふけったものである。三上於兎吉の「雪之丞変化」や横山美智子の「緑の地平線」などが新聞小説に登場したのはその頃ではなかったかと思う。

病状も次第に快復し散歩ぐらい許されるようになった頃、近くの丘に上っては玄界灘の水平線を眺め、次第に消えて行く汽船の姿に、満蒙雄飛の夢を描いたりしたことであった。病床で読んだ山中峰太郎の「敵中横断三百里」や当時の大陸進出の世相に影響されてのことだったのだろう。
いずれにしても一年あまり自宅療養をしていたのだから、両親はもとより姉や兄にしても学校から帰ってくれば、いつも病人の寝ているわが家は、随分うっとうしいものであったろうと思われる。健康でないということは自分自身の不幸はもちろん、まわりの人にも多大な迷惑をかけるものである。(昭和五十三年)

⇒第五話「はぜまけ」

ramtha / 2011年4月27日