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第九話「到津の往還」

西原町の家には一年ほども住んでいただろうか。間もなくわが家は下到津の借家に転居した。今度の家は、小倉から八幡へ向かう電車通りを、到津で右に折れ、板櫃川を渡り、西南女学院の下を通って峠越しに、戸畑へ通じる往還に面した二軒長屋であった。それまでの西原町の借家と、部屋数も広さもさして変わらなかったと思うが、道路よりも少し低いところに建っていて、庭もほとんど無いような家であった。
そんな家にどうして移ったのか、その間の事情はよく分からない。八幡から西原町へ転宅した時、姉は近くの板櫃小学校へ転校したが、兄は戸畑の私立明治小学校に転校し、山越に5キロ以上もある道を通学していたので、或いは少しでも近くへという事であったのかも知れない。
門司、小倉方面から西南女学院に通学する生徒にとっては、わが家の前のその往還が唯一の通学路であったから、朝夕女学生が列をなして賑やかにこの道を通って行った。教師の子どもであることもあって、女学生に見られるのがとりわけ恥ずかしい思いがして、女学生がわが家の前を通過する時間帯は、私はなるべく外に出ないようにしていた。
この往還は小倉と戸畑を結ぶ数少ない道路の一つでもあったので、どの頃としては交通量の多い道路であった。といっても、今のように乗用車やトラックが地響きを立てて通るなどということは無かったが、荷馬車や、大八車、ときには自転車の後に付けたリアカーなどが砂ほこりを立てて通り過ぎていった。
盤台を天秤棒の両端に提げ、「鰯コー鰯」と威勢のいい売り声をあげる魚屋は電車通りの方から、大根や白菜などの取り立ての野菜を積んだ大八車を引っ張るお百姓さんは、坂の上の方からやってきた。また、時には「鍋釜の修繕はありませんかー」と怒鳴って歩く鋳掛屋が炉端でフイゴを押して火をおこす姿や、細く裂いた長い竹を右に左に振り回しながら、路上に座り込んで、桶やタライのタガ直しするタガ屋のじいさんの姿も見受けられた。
この界隈に毎日のようにやってきたチリンチリンと鳴る煮豆屋の鐘の音と、「玄米パンのホヤホヤー」という売り声は、いつも私の食欲を刺激したが、古新聞紙でつくった三角の袋に入れてくれる大福豆と、パン屋が手掴みで渡してくれる玄米パンとは、衛生にことさらやかましい母が買うことを許してくれなかった。近所の子ども達が大福豆の入った三角形の紙袋を左手に持ち、右手の親指と人差し指で一粒ずつ摘んで口に入れては、指先をさも旨そうに嘗めているのを、私はいつも遠くから眺めていなければならなかった。
往還を戸畑の方へ向かって少し行くと左手には石垣の上にお寺があり、その後方には到津八幡宮があった。後に八幡宮の横の山を切り開いて到津小学校が建設されたが、当時はまだ雑木の茂る森で、その奥の一段高い丘の上に西南女学院の校舎が白い姿を表していた。
往還はお寺の先のあたりから勾配が急になりつつ左に曲がって、西南女学院の正門の前を通り、さらに五十メートルほど坂を上ると峠にたどり着く。峠の右の丘に上がると、北に玄界灘の水平線が望まれ、西には明治専門学校の校舎が森の上に姿を見せていた。
当時小倉には野戦重砲旅団が駐屯していて、時折この到津の丘で空包射撃訓練が行われた。その演習のある時は軍馬六頭で曳く野戦重砲が何門も、それこそ地響きをたててわが家の前を通って行った。真夏の太陽が照りつけ、馬蹄と砲車がまきあげる砂ぼこりの中を、砲車の後から小走りに行進する兵隊の背中には、軍服の上まで黒く汗がしみ出ていた。舞台の通り過ぎて行った後には、まだ湯気のたっている馬糞が往還のそこここに落ちていて、その臭いが家の中まで入ってきた。
その家にすんでいた昭和三年という年は、御大典の行われた年で、不景気の中に貧しいながらも、まだ庶民は平和な暮らしをしていたように思われる。わが家の前を通り過ぎていった野戦重砲の、あの激しい地響きは、その後にやってきた軍国主義時代の前ぶれでもあったのだろうか。(昭和五十四年)
(註)往還(おうかん)=ゆきき、ゆきかえり。ゆききの道。通り道。(廣辞林より)
今では全くと言っていいほど使われなくなった言葉であるが、私達の子どもの頃は「往来」とか「往還」といった言葉が日常使われていた。辞書の上では「往来」も「往還」も区別が無いようだが、私の主観では「往来」は交通量の多い街中の道路を意味し「往還」は一つの街と隣の街を結ぶ郊外を走る道路を指していたように思う。現在のように一つの街と隣の街との間に切れ目無く住宅が建ち並ぶようになっては、「往還」と呼ぶべき道路はよほど田舎に行かなければ見ることができなくなり、言葉自体もすたれてしまったのだろう。しかし未知の世界への夢とロマンをかきたててくれる「往還」が死語となってしまった事は淋しい限りである。

⇒第十話「骨皮筋ヱ門の一勝」

ramtha / 2011年4月22日