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「二、戦時下の暮らし」

開戦前から不足気味となっていた生活物資は、一段と乏しくなり、米穀通帳による主食の配給制をはじめとして、衣料はキップの点数制となり、店頭に並ぶ商品も次第に少なくなって行った。

主食は当初一人一日当たり三合となっていたが、やがて二合三勺に減らされ、内容も米に混ぜられる粟(あわ)や稗(ひえ)などの雑穀が多くなり、食べ盛りの子供の居る家庭では、密(ひそ)かに農家を訪れ、主婦の着物などと交換に、闇米を手に入れるなどしていた。

雑穀が混入されては不味くなるが、そんなことは言って居られない。しかし粟や稗はなんとか我慢できたが、高粱(コウリャン)の固い粒は消化し難く、胃腸の弱い私など、しばしば下痢するなど悩まされたことであった。

福岡高校の正門前に、高校生相手の福岡亭という食堂があったが、そこでもゼンザイのようなものは、いち早く姿を消した。

ある日、草ヶ江橋のたもとに、ゼンザイを食べさせる店があると聞き、友達と駆けつけてみたが、それは薩摩芋の入ったイモゼンザイにすぎなかった。それでも久しぶりに口にする薩摩芋の甘味に満足したことであった。

昭和十七年四月、東大文学部に入学、上京して吉祥寺の伯母の家に厄介になることとなった。

食糧事情の悪化する中で、伯母にしてみれば、ずいぶん迷惑なことであったに違いないが、おかげで私は食事に不自由することはなかった。

昼食は大学の食堂で済ましたが、外食券を出しても品切れで食べそこなうこともある。だから午前中の講義では、講義の終わる前に抜け出して、食堂の列に並ぶ学生も少なくなかった。

入学直後に戦時特別措置として、修学年限が二年半に短縮されることとなった。それにともなって、一年次は半年となり、夏休みを返上して授業が行なわれた。

当時のことだから冷房設備などはない。教室の天井に取り付けられた扇風機が、蒸し暑い空気をかき回す下で、ともすれば襲い来る睡魔と闘いながらノートを取っていた。後で見たら、蚯蚓(みみず)の這。た跡のような線が書かれているだけで、判読し得ないこともあった。

(注)米穀通帳=米穀割当配給のために各世帯に交付された台帳。一九四一年六大都市で交付、翌年全国に及ぶ。

(注)衣料切符=配給制度のもとで、衣料の分配のため官公庁が発行する切符。一九四二年から五一年まで実施。

(注)高粱(コウリャン)=穀物の一種。たかきび。

(注)外食券=第二次世界大戦時および戦後の主食の統制下で、外食者のために発行された食券。

ramtha / 2015年6月26日