筋筋膜性疼痛症候群・トリガーポイント施術 ラムサグループ

第十四話「霜焼け」

栄養豊か、暖房完備の今どきの子ども達には、あかぎれ、霜焼けなどは無縁のもののようであるが、私達の子どもの頃は、冬の訪れと共に、両足の側面やカカト、足の裏などが必ず霜焼けになったものである。当時は今と違って自宅での勉強は、ほとんどが座り机に向かって正座し、暖房と言えば、北九州のわが家では家族の集まる居間こそ石炭ストーブがあったが、勉強部屋では火鉢の炭火しか無かった。寒い部屋の中で長時間座っていれば足の先は冷え切り、おまけに正座しているので血行障害を起こして、たちまち霜焼けになってしまう。霜焼けになった部分は、やがて赤く腫れ上がって痒くなってくる。掻いたり擦ったりすると、ますます痒くなる。風呂上がりにメンソレータムを患部に擦り込んだりしたものだが、効き目はあまりない。
夜、布団に入って少し体が温まってくると、痒みがだんだん増してくる。暫くはじっと我慢しているが、やがて堪えきれずに起き上がって、叩いたり擦ったりすることになる。そんなことをしても、なんの高価もないのだが、そうせずにはいられない程痒いのだ。ごく幼い頃には、よく父が布団の上から叩いてくれたりしたものだ。吹雪の夜、おとぎ話などを語りながら、私が寝入るまで叩いてくれたあのリズムは、雨戸を叩く木枯らしの音と共に冬の夜の思い出のリズムでもある。
霜焼けになるのは多くは子ども達で、大人はそれ程でもなかったようだ。しかし女中さんのように、何時も冷たい水に手足を濡らすことの多い人や、毎日冷たい風に吹かれて一軒一軒歩き回る商店のご用聞きなどは、あかぎれや霜焼けに随分泣かされたものである。
冷たい風があたると耳たぶが霜焼けになる。また、手の小指の外側がしばしばやられたものである。冬の登校時は何時も両手を擦り合わせたり、耳たぶを手で揉んだりして、霜焼けにならないようにした。そうしていても寒い冬の朝、朝礼の間、校庭にじっと立っていたり、掃除当番で、氷のように冷たい水で雑巾がけをしたりすると、後でいくら手を擦っても霜焼けになったものである。
高等学校に入学してからは、教室にストーブがあったのと、体も成人になったせいか、霜焼けにかからなくなった。ところがその後軍隊に入隊して、またまた霜焼けに苦しむこととなった。
昭和十八年十二月一日、西部四十六部隊(歩兵二十四連隊)に入隊したが、雪の舞うなかで、冷え切った銃の床尾板や銃身の金属部分を素手で持ったり、手の切れるような冷たい水で食器を洗ったりするうちに、両手とも凍傷にかかってしまった。
九州の部隊は内務班(兵隊の居住室)には暖房が一切無く、真冬といえども火の気と言えば、煙草の火だけという有様であったので、凍傷はひどくなるばかりで、赤く腫れ上がった部分がやがて紫色に変わり、とうとう穴があいて膿が出てくるまでになった。凍傷の甚だしい兵隊には手袋を使用することが許されたが、演習から帰って手袋を脱ごうとすると、化膿した部分が手袋にくっついてしまって、すぐには脱げない有様であった。こうなると痒いのは通り越して痛くてたまらない。ちょうどその頃、母が面会に来てくれたが、母に気づかれぬよう、手を後ろに隠し隠し面会したことを思い出す。
しかし、私の場合は内地の、しかも九州の部隊での冬だったので、この程度のことですんだが、満州にやられた兵隊の中には凍傷のため、手や足を切断するようなことになった者も少なくないと聞いている。先頃テレビ映画の「八甲田山」で、吹雪の中つぎつぎよ倒れていく兵隊の姿を見て、自分の右手の中指に今も残る当時の凍傷の痕跡を、ふと撫でてみたことであった。(昭和五十四年)

ramtha / 2011年4月17日