筋筋膜性疼痛症候群・トリガーポイント施術 ラムサグループ

「無気力」

 

毎日新聞の今朝の特集記事には、最近の若者の就職事情が取り上げられている。その中で近頃のニートといわれる若者の就職意欲の無さと、企業の手荒い雇用の実態が記されていた。職場から引退して、もう四半世紀にもなろうかという私には、こうした事柄に関しては分からないことばかりだが、自分の現役時代と比べ、あまりの違いに驚いている。
私は終戦で復員するとすぐに麻生鉱業に入社した。当時は戦後の混乱期で多くの復員者や海外からの引き揚げ者が職を求めて巷に溢れていた。そのような時、私はかねて麻生の給費生としての関係があったので、入社試験も無く就職することが出来たが、当時としては最も恵まれたケースであったと言えるだろう。
しかし、戦時中の企業では出征休職社員の補充として採用した社員も多く、終戦によって帰国してくる大量の復職社員と合わせて、その処置に困惑することとなったが、まだ労働基準法も無かった当時、復員社員を帰国と同時に解雇する企業も少なからずあったと聞いている。
 
そんな時代であったから、一流の高専、大学卒の履歴を有する物も、採炭夫として炭坑に就職することが珍しくなかった。後に麻生で久原炭坑の坑長を勤めた山村氏は熊本高専工業(今の熊本大学)出であったし、岳下炭坑の最後の坑長立石氏は明治専門学校(今の九州工業大学)を卒業していた。
そうした人たちは、世の中が落ち着いて来るにつれて、職員に登用されたり、それぞれ相応しい仕事に転職していったが、中には落盤事故に巻き込まれ命を落とした者も居た。
上三緒炭坑で実習を共にした久留米工専卒の石津君は実習後選炭係をしていた、ある日選炭機運転中に彼の目前で、選炭婦の一人が石炭貯蔵ポケットの縁から誤って転落した。彼は咄嗟に飛び込み救助しようとしたが、粉炭に脚を取られて埋没、窒息死した。
上部からの救出不可能のため、ポケットの底を抜いたとき、石炭と共に出てきた彼は粉炭に口を塞がれ、すでに窒息死していた。彼の腹の上に臥伏せになった姿勢で引き出された選炭婦は、呼吸する僅かな空間が、彼の身体で確保されていたらしく、奇跡的に命をとりとめたという。
 
顧みると日本中がまだ貧しかったあの当時は、厳しい労働環境の中を、みんながその日の糧を求め、ひたすら駆け回っていた。
それに比べると、かつては人の手による作業も、今では殆ど機械化され、現場の仕事も大半は自動制御の景気を見たり、コンピューターを操作するような肉体的には楽な仕事になっているようである。それにも拘わらず若者にやる気が起こらないというのはどうしてだろう。
考えてみると今の若者は働かなくても喰うには困らないからではないか。私の耳にするニートも、多くは親の脛かじりで暮らしているようで、親兄弟に面倒を見てもらえないときは、生活保護など社会保障があると思っているのかも知れない。生活保護が国の財政を圧迫しているというのも、こうした風潮にその一因があるのだろう。
 
それはともかく、喰うに困らないからといって、何もしないでは、まことに味気ないことで、自分の存在感も暮らしの充実感も無いに違いない。
日本中が貧しく、みんなが必死で働いていた頃は、肉体的にはずいぶんと辛いこともあったが、昨日よりも今日、今日よりも明日と、坂の上の雲を目がけて一段一段高みへ登る充実感があったように思われる。
こうしてみると、がむしゃらに働き、ようやく手に入れた豊かな暮らしとは何であったのか。目指してきた坂の上の雲は、無気力な世代を生む空しさであったのか。
明日のない年になって考えさせられるところである。
 
(平成二十五年 一月十日)

ramtha / 2013年2月27日