筋筋膜性疼痛症候群・トリガーポイント施術 ラムサグループ

「徒然なるままに・・・」

今回の入院中、徒然なるままに、九十年に及ぶわが身の越し方を顧みることとなったが、一言で言えば、よくまあ漫然と過ごしてきたものだと呆れるばかりである。
「大人になったら何になる?」ということは、子どもの頃によく聞かれたことだが、当時の事だから、友達の多くは「陸軍大将」などと応えていた。生来病弱な私は軍人になるなど考えてみたこともないが、さりとて何になりたいと返事していたか覚えていない。
 
私たちの頃は、義務教育は小学校までで、中学校・工業高校・商業学校などに進学する者は、それぞれ入学試験に合格しなければならない。友達は各自、自分の学力・将来への希望・家庭の経済状況を勘案し、親や担任の先生と相談して決めていたようだ。そんなとき私はどうして居たのだろう。別段記憶のないところをみると、何も考えず、クラスの友人が受験するのに引き摺られて、漫然と受験したのではなかったかと思う。
 
私が通学した小倉中学は、当時全国でも屈指の進学校で四年生になると、一学年五クラスのうち、成績上位五十名を一クラスに集め、四年から旧制高校、陸軍士官学校、海軍兵学校などに進学する為の課外補習授業が行われていた。
当時のことだから陸海軍の将校を目指す者が少なからず居た。私もそのクラスへ編入されていたが、それも特にどの学校を目指してという記憶はない。教育熱心な母が担任の先生と相談して近くの福岡高校を選び、それに従って受験したように思う。
 
高校受験の際、文科乙類を選んだのは、近眼で顕微鏡を覗く事を苦手としたから文科を選び、当時日独防共協定でドイツに親近感を抱いていたことから、ドイツ語を第一外国語とする乙類を選んだことであった。しかし、この時もなお、将来就くべき職業については何も考えていなかった。
 
福岡高校入学と同時に寄宿舎に入居することとなったが、二人一部屋の相手は一歳年上の宮崎君であった。
ある日彼からわが家の事を聞かれ、親父は女学校の教員であること、兄は歯科医師専門学校在学中であることなど説明した。
すると「お前の親父は二人の学費で大変だなあ」という。それを聞いて私は愕然とした。それまでわが家の家計のことなど考えたことがない。私はまことに幼稚な高校生であったが、初めて自分の学費はなんとかしなければと思い至った。
 
しかし私に出来ることといえば、家庭教師ぐらいしか無いが、当時は子どもに家庭教師をつける家庭は、医師や大手企業の管理職などの裕福な家庭に限られていて、なかなか見つかるものではない。そこで当時私の保証人であった笹月先生(当時九州大学講師)宅を訪れ事情を述べて、然るべき家庭教師先を紹介して欲しいとお願いした。
すると先生は「君の体力で学業と家庭教師と両立するのは大変だろう。それより私の知人の経営する麻生商店の給費生にしてもらったらどうだろう」と言われ、早速紹介状を書いて下さった。
 
そのような経緯があって、私は麻生から給費を受けることとなったが、顧みると一切は笹月先生はじめ関係者みなさんのご厚意によるもので感謝のほかはない。だがそれでもなお、将来どうやって生きて行くかなどは考えていなかった。今から思えば、世間知らずの幼稚な高校生であったと自ら呆れるばかりである。
 
高校三年生となり、進むべき大学を決めなければならないが、和辻哲郎先生の「風土」や「古寺巡礼」などに魅せられていた私は、先生の講義を受けたい思いだけで、東大文学部を志願した。
日本史年表を見ると、大学に入学した昭和十七年四月には米軍機による東京初空襲があり、六月のミッドウェー海戦を境にして米軍の反攻が本格化し、アッツ島守備の日本軍全滅などが記されている。そのようなご時世で、大学二年次終了とともに、戦力増強のため文科学生の徴兵延期制度は撤廃された。
 
怠惰な学生生活を取り上げられた私は、昭和十八年十二月、福岡の歩兵二四聯隊留守隊に入隊させられた。
翌年三月、ビルマへ出征を命じられていたが、どうしたことか、出発直前に私だけ留守隊の聯隊本部事務室勤務を命じられ残留することとなった。三日後出発していったビルマ派遣部隊の輸送船は、米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け、全員玄界灘の藻屑となったと後日知らされた。今にして思えば僥倖としか言いようのない幸運であった。
その後内地防衛部隊の一員として、鹿児島県大隅半島の山奥に駐留中、昭和二十年八月十五日の終戦を迎えた。
 
九月末帰宅してみると、前年に大学は繰り上げ卒業の措置を受け、卒業証書が送られてきていた。また麻生商店からは、二十年一月一日付の採用辞令が届いていた。
卒業したとは名ばかりであったから、今一度大学に戻り勉強し直すつもりでいた。
十月中旬、とりあえず帰還報告と復学の承諾を得るため麻生本社に出向いた。当時の文書課長の吉鹿さんにその旨申し述べると、吉鹿さんは「今東京へ戻っても、食糧確保に追われてとても勉強など出来ないでしょう。それよりわが社で仕事をされては・・・」と勧められた。結局その言に従って麻生本社に勤務することとなった。
以来平凡なサラリーマン人生を送り、六十五歳を以て引退、今日に至っている。
 
以上振り返ってみると、環境の変化に押し流されるまま、自主性の無い人生で、我がことながら呆れるばかりである。
思えば何一つ努力すること無く過ごしてきたが、事故や災難に遭うこともなく、不遇をかこつこともなく、また囚われの身となることも無く、安らかに人生の終焉を迎え得るようで、まことに恵まれた幸せな人生であったと、しみじみ思う。お世話になった多くの方々に感謝のほかはない。
 
 (平成二十五年四月二十四日)

ramtha / 2013年7月18日