筋筋膜性疼痛症候群・トリガーポイント施術 ラムサグループ

「依存症」

近年飲酒運転による人身事故が多発し、その撲滅が取り沙汰されているが、そのニュースの中で「アルコール依存症」という言葉がしばしば登場する。また「ギャンブル依存症」で借金を重ね、家庭崩壊に至ったなどのニュースも目にする。
私の手元にある広辞苑は一九八三年(昭和五十八年)版だが、「依存症」という言葉は掲載されていない。どうも、その後登場した言葉のようである。
 
いずれにしても「依存症」というのは、俗に「○○にはまる」と言われる症状で、あるものごとに病的なまで耽溺することをいうようである。梯子酒や賭場通いなどにしばしば用いられるので、マイナス・イメージが感じられるが、考えてみれば、人は誰しも何らかの依存症を背負っているようにも思われる。
 
キリスト教、イスラム教などの熱心な信者は、それぞれの神を信じ、自分の運命を託している。それほどのことはないにしても、科学分野の研究者や先端技術に専念する人たちは、日夜各自の課題の研究に没頭し、ときに寝食を忘れることもあると聞く。そうした一流の人たちでなくても、仕事熱心な人や趣味に特技を持つ人などは家庭を犠牲にして、しばしばその道にハマルことは珍しくない。こう見てくると、人間は何かに依存しなければ不安になるのかも知れない。
 
「人間とは何ぞや」「人は如何に生くべきか」などは世界の先哲が思いを巡らし、それぞれの説を唱えているが、未だに万人を安堵させるような結論は得ていない。また人類を取り囲む宇宙についても、近年研究が急速に進歩したと言われるが、これまた未知の世界が無限にあるようである。
 
人生について考えれば考えるほど、分からないことばかりで、真面(まとも)に向き合えば、不安が増大する。捉え処のない不安の中に身を置いていると、気がおかしくなってくる。心理的転倒を防ぐ為に、人は身を委ねる杖として、ハマルものを求めるのではないか。
 
自分のことを顧みると、現役時代は仕事に追われる毎日で、人生論など考える暇は無かった。その当時は、あまりの忙しさに、たまには暇が欲しいと思ったりしたこともあったが、今から思えば人生の意義など難しいことを思い悩むこともない幸せな日々であった。
年金生活に入るとともに、飯塚に引き上げてきて、家庭菜園と漢字の字源を尋ねる遊びを日課にして過ごしてきたが、もともと集中力に乏しく、よろず散漫な性格だから、ものごとに熱中するタイプではない。
自動車の運転もできないので、以前は近くの田舎道を歩くことを楽しみとしてきたが、八十歳を越えてからは足腰が衰え、それも出来なくなった。今では両手に杖をついて、僅か四百メートルばかりを歩くことを日課にしている有様である。
 
そのようなことで、気が向けば、退屈しのぎにワープロに向かい、とりとめのない雑文を記したりして過ごしている。だから強いて言えばワープロ依存症というところであろうか。
 
私がワープロにはまったのは、幾つかの理由がある。
昭和六十二年に次男が勤務する小学校に、初めてパソコンが導入されることになり、当時先生仲間で最も若い彼がその担当を押しつけられることになった。
そこで、彼は学校で導入されるものと同じものを自宅にも備え、わが家でも操作の勉強をしたいから、その購入費を貸してくれという。
パソコンが市販されるようになったばかりで、たしか一台五十万円ばかりしたと思うが、遊ぶ為の金では無いので貸すことにした。
しかし、どうせ「貸し呉れ給え」になるものと思われたので、私もせめてワープロ代わりに使用することを覚えることにした次第である。
 
なお、ワープロの機能に魅かれたのは、第一に生来悪筆の私には、他人様への手紙もワープロに頼れば、恥を曝さずに済む。
第二に、思いつくままに書き散らすので、後からしばしば書き直すことになるが、肉筆の場合は全文書き直さねばならないが、パソコンでは一部抹消、追加、挿入など自由自在で、
よろず行き当たりばったりの私にはまことに便利であるが、依存症と言えるかどうか分からない。
 
しかし、考えてみると、真面目な人ほど物事を真剣に考えつめるので、悩みも深く、依存症になりやすいのではあるまいか。
依存症が無いと言えば、いい加減な人間と評価されるかも知れないから、地獄での閻魔さんの面接の時には「ワープロ依存症」と応えることにしよう。
 
(平成二十五年五月七日)
 

ramtha / 2013年9月2日