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「マスコミの影響力」

珍しく本棚を整理していたら、北原亞以子の「深川澪通り木戸番小屋」が出てきた。もう二十年も前に読んだものだが、江戸下町の人情豊かな物語に、ほのぼのとした読後感があった事が思い出されて、本の整理はそのままに読み耽ってしまった。
 
この小説は、以前にNHKの連続ドラマでも放映され、神田輝彦、池上季実子のコンビが、その名演技で、原作に漂うしっとりとした趣を見事に表現していたことが思い出される。
 
テレビドラマ化された時代小説の名作には、大佛次郎の「赤穂浪士」を始め、山本周五郎の「樅の木は残った」、司馬遼太郎の「新書太閤記」や藤沢周平の「蝉しぐれ」などなど沢山ある。
 
これらのテレビドラマには、原作のストーリーを忠実に再現したものと、ずいぶん手を入れ改作されたものとがある。
テレビの改作は、放映する時間の制約などによるものと思われるが、中には原作の香り高い表現が失われたり、原作者の意図が著しく歪められたりして、失望させられることも少なくない。
 
小説を読む楽しみは、活字で描かれている風景や人物を自分の想像力によって、頭の中に再現することにある。
私の経験から言えば、原作を読む前にテレビドラマを見ていると、後に原作に接しても、放映された風景や出演者の姿にとらわれ、自分の想像力は自由を奪われてしまい、読書の楽しみは半減してしまうような気がする。
逆に「鬼平犯科帳」の主役を演じる中村吉右衛門のように、俳優の魅力で、原作以上に視聴者を惹きつけるテレビドラマもある。
 
また、同じ作品が何度もドラマ化されているものもあるし、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、坂本龍馬、西郷隆盛など歴史上の人物がいくつもの作品に登場している場合も少なくない。このようなケースでは、同一人物を演じる何人かの俳優を見ることになるが、私の印象では、歴史上の人物についての人物像は、その人物を演じた最初の俳優のイメージに固定されることが多いようである。
そして後に見る作品で、別の俳優が演じている人物像は、さきに固定化されたものに妨げられ、どうも落ち着かない。
 
例えば、私がテレビで見た最初の織田信長は、「新書太閤記」の高橋幸治であったが、彼の底冷えするような無表情と、聞く者の腹の底まで徹る声が、孤高の独裁者信長のイメージとして私の脳裏に刻み込まれている。
その後何人もの俳優が織田信長を演じているが、私にとって高橋幸治を超える織田信長は、未だ現れない。
 
また同じドラマで緒形拳が秀吉役を演じていたが、こちらは人懐こい笑顔を見せるかと思えば、一転して憤怒の形相となるなど、表情豊かな演技で、草履取りから天下人まで駆け登った豊臣秀吉を見事に演じていた。秀吉役も多くの俳優が演じているが、緒形拳の右に出る者は居ないと思っている。
 
「大岡越前」は「水戸黄門」と並んで、長寿番組の代表だが、ずっと加藤剛が越前守を演じ、私の頭の中では、もはや越前守と加藤剛が一体化してしまっている。
その結果、加藤剛が他のドラマに出演しているときも、脳裏に刻み込まれた大岡越前守の姿がちらついて困る有様である。
 
こうして見てみると、私たちの抱く政治家像も、テレビ報道で最初に見た事件や場面の明暗などによって、歪められていることも少なくないのではと思われる。
 
私のような田舎に住む庶民は、中央政界で活躍する政治家などは、直接目にすることはなく、その人柄を知ることは出来ない。大半は新聞紙面やテレビの画面でその姿を見、発言を知ることで、その人物についての印象が作られている。
 
顧みると、自分も賛同する政見を演説しているような時はプラスの、汚職や失言などのニュースではマイナスのイメージが、その政治家のものとして脳裏に刻まれ、その後余程のことが無い限り、その印象は変わらない。
 
外国の要人などについても、日本との親善提携の立場で報道されるか、利害対立の立場にあるかによって、その人に対する好悪の感情が作られる。それはまた同時にその人が属する国や民族に対するイメージともなる。
 
こうして考えて来ると、マスコミの威力の恐ろしさを改めて思い知らされる。
民主主義の社会では、言論の自由が保障されることが大事であることは言うまでもないが、それだけにマスコミに従事しているものは、その影響力の偉大さを常に意識して、誤り無き報道を心がけてもらいたい。
 
(平成二十五年五月八日)

ramtha / 2013年9月2日