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「国民性」

先日知人から室谷克実著「悪韓論」(新潮新書)を頂いた。私の知らなかった韓国事情が書かれている。
参考の為に幾つかを抜き書きする。
 
①韓国で李王朝時代に、両班(ヤンパン)・中人・常民・奴卑・白丁(ペクチョン)という世襲による超えがたい身分制度があった。奴卑は「人もどき」で売買の対象にもされた。
 
本書の説明では、両班は文班・武班の貴族。
中人は宮廷に勤務する役人。
常人は農民・漁民。
奴卑は農奴、手工業者、妓生(キーセン=宮廷に使える舞妓)など。
白丁は芸人を言う。
 
これに対応する今日の身分を例示すれば概ね次の通り。
 
両班=閣僚、国会議員、財閥オーナー
中人=高級公務員、教授、大財閥の社員
常民=公務員、教員、警察官、商店主、自営業者、農民、漁民、一般企業の社員、大財閥の工員
奴卑=商店店員、工員、ホステス
白丁=雑役夫、売春婦、外国人労働者
 
今も外国人、在日韓国人、脱北者に対する差別と共に、階級で極端に差別する意識が強い。
また、異様なまでの学歴崇拝と職業に対する貴賤意識が強く、大卒で無ければ人間でないという風潮がある。
 
②外面にこだわり、女性はもとより男も美容整形をしている。盧武鉉(ノムヒョン)元大統領夫妻も二重瞼にする整形手術を受けている。
 
③見栄を張る一例として、朝鮮日報の記事によれば、年収三五〇〇万ウォンの公務員男性(三〇歳)が結婚式費用に五〇〇〇万ウォンをかけたという。
 
④韓国人は明確な格差をつけたがる。従業員十名の商社を訪ねると、従業員は狭い事務室で隣の人と肘や肩が触れ合うようにして仕事をしているが、隣の社長室はずっと広い部屋に社長一人がふんぞり返っていた。
 
⑤韓国は儒教の国と言われるが、儒教の「君子不器」を歪曲している。
「君子たる者は、細かな専門知識に踏み込まず、大局を見る目を養うべきだ。」というのが本来の主旨であり、指導者哲学としては正しいが、大半の人はこれを楯にして、実技を伴う仕事は身分の低い者のすることとして軽蔑する風潮となっている。
 
その一例として、昔は水の漏れない桶や樽を作れないので、女達が重たい甕を頭に載せて水運びをしている。
また、染料はあっても、洗っても色落ちしない顔料はほとんど作れなかったから、よほど身分の高い両班以外は、白い朝鮮服しか着れなかったという。
 
⑥町工場や修理工場でしばしば耳にする言葉にヒムドゥロヨとケンチャナヨがある。
 ヒムドゥロヨは本来は「力が入る」の意味だが、現場では「厄介だ」「面倒くさい」といった感じで使われる。
 ケンチャナヨは様々な意味を持つ言葉だが、現場では専ら不正確さを容認する言葉として使われる。「構わんさ」「いいじゃないか」「これで良かろうよ」といった感じである。
 
⑦東亜日報の記事に「中小企業の工場で働くよりは、サービス業や風俗産業で働く事を好む若者が少なくない」とある。
 
⑧海外留学人口比率では韓国は世界一。韓国教育開発院の統計によれば、2011年海外留学生数は、大学で28万人余、小学生7400人余、中学生5400人余、高校生3500人余となっている。
米国には「韓国人専用」の教育施設が「大学」として存在しているようで、ここに留学してくれば「留学経験あり」の肩書きがつく事になる。
大学卒の学歴と、留学歴は就職の有力な資格となる。
 
以上、私が驚いたことの幾つかを並べてみた。
 
昭和20年、麻生鉱業に入社した当初、上三緒炭坑で実習させられて、そこで坑夫が係員の事をヤンパンと呼んでいたが、ヤンパンが朝鮮語であろうとは承知していたものの、両班が語源であるとは知らなかった。そういえば、採鉱係の係員は、両班と同様自ら手を下すこと無く、坑夫を顎の先で指図していた。
 
韓国人が中国人同様に面子にこだわるとは薄々聞いてはいたが、これほどとは知らなかった。
日本では「能ある鷹は爪を隠す」というように、学歴や特技などは有ればあるほど。表には出さないのが奥ゆかしいとされているのに、どうしてだろう。「稔るほど頭を下げる稲穂かな」などという言葉は韓国には無いのだろうか。
それにしても、韓国人はこれほどまでに見栄を張り、目下の者に対して尊大なポーズを取るのだろう。
考えてみると、韓国は強大な中国と陸続きの隣り合わせに位置し、その歴史は中国の支配もしくは脅威の下で堪え忍ぶことを余儀なくされてきている。そのストレスの捌け口が目下の者に対して限りなく自己顕示することとなったのではあるまいか。
 
韓国人の反日感情も、かつて中国文明を伝えてやった後輩ではないかという思いが心の底にあり、弟の分際で大きな面をするなという気持ちが抜けきれないことに因るものだろう。
 
また、韓国社会で、上からいじめられる下の者が大声を出して泣きわめくのは、そうすることで、さらなる被害を避けようとしたのだろうか。それとも相手の不当と自分の正当性を第三者に訴えるためだろうか。
 
日本では喜怒哀楽を露わにすることは恥ずかしいことで、声を忍んで泣く姿に悲しみの深さが感じられる。これに対して、中国や韓国の葬式では、ことさら声をあげて泣きわめくようで、時には泣き女を雇う事もあると聞く。
日本では大袈裟であるほど、お義理ではないかと見られるが、この違いはそれぞれの体に染みついたもので、お互いに理解しがたいことと思われるが、どうだろう。
 
韓国人一般にヒムドゥロヨ(面倒くさい)とケンチャナヨ(いいじゃないか)と言わせるいい加減な気持ちにさせたものも、その歴史にあるのではないかと思われる。
自分の国を良くする政策を立案しても、逐一支配者である中国の許可を必要とするのでは、真面目に仕事をする意欲も失われ、ヒムドゥロヨ、ケンチャナヨとなっても致し方ないことだろう。
有史以来、日本海によって大陸と隔てられ、国の存立が守られてきた日本の幸せを、改めて思い知らされたところである。
 
(平成二十五年六月二日)
 

ramtha / 2013年11月1日