筋筋膜性疼痛症候群・トリガーポイント施術 ラムサグループ

「誕生日」

満九十一歳の誕生日を迎えた。私は大正十一年七月二九日、真夏の暑い夕べ、北九州市八幡東区(当時の八幡市)にあった八幡製鉄所官舎で生まれた。
生まれたとき産声をあげなかったので、産婆が両足を持って逆さに吊し、尻を叩いてやっと弱々しい産声をあげたという。
産湯の水が耳に入って中耳炎を患い、生後一ヶ月にもならぬ内から医者のお世話になったとも聞かされた。病弱な人生のスタートは、そんなことであったらしい。
 
一番上の姉を産み、兄を胎内に宿していた母が坂道で転び、それが原因で外傷性脊椎カリエスを患ったそうである。その後三人の姉妹と私が生まれたが、私以外はいずれも幼児期に病死している。母の病前に生まれた長姉と兄の他では、私だけが辛くも生き残ったが、母体の健康が子どもの体質を左右したということであったのかも知れない。
 
幼いときは病気に次ぐ病気で、母は片時も心の安まることは無かったようである。当時は今と違って抗生物質なども無く、ちょっとした腹下しから疫痢や自家中毒を患い、バタバタと死んでいくのが珍しくない時代であった。そんな時代に私のような病弱の子を育てる親の苦労は、今の人には想像もつかぬものであったに違いない。
また健康保険などと言う有り難い制度も無かったので、経済的負担も並大抵の事では無かったことだろう。
 
その頃のかかりつけの松見病院では「この子は二十歳までもてるかどうか」と言われていたと、後年母に聞かされたことである。
 
小学校は戸畑市の私立明治小学校へ通学したが、肺結核をはじめずいぶん病気欠席した。小学区を卒業したとき、父が六年間の通信簿の出席日数を計算してくれたが、出席率が五十%にも満たなかったことであった。
 
小倉中学でも肺結核の再発や盲腸炎の手術などで病欠することが多かったが、高校受験を控えた四年生の一年間だけはなんとか健康を維持し、皆勤賞というものを初めて手にした。
成長するにつれて体質も変化したのか、旧制高校に入学してからは大病をしなくなった。
 
大学在学中の昭和十八年、文化系学生の徴兵延期が取り上げられ、いわゆる学徒出陣で、福岡の歩兵二十四聯隊に入隊し、昭和二十年八月十五日の終戦まで軍隊勤務をさせられた。貧弱な体力で不器用なため、ずいぶん殴られもしたが、なんとか無事に復員出来た。
 
戦後は(株)麻生商店に入社したが、昭和三十年本社勤務中、肺結核を再々発、肺葉切除手術を受けた。その折、肺炎を併発、生死を彷徨うこともあったが、新しい抗生物質の投与を受け一命を取り留めた。
 
振り返ってみると、今日まで生き長らえたのは奇跡としか言いようがない。どうも健康と寿命は別物のようである。
 
六十五歳で引退、年金生活に入り、家庭菜園に励むなど晴耕雨読の日々を過ごすようになってからは、比較的健康に恵まれて来たが、十年ばかり前から足腰が衰え、両手に杖の不自由な有様となってしまった。
 
あまつさえ、最近では暗いニュースにばかり聞かされ、早く心肺停止すれば、すべて安心できるものをと嘆き悔やむばかりである。
 
しかし冥界の収容施設も少ないのか、入門待ちの先輩が列をなしているようで、なかなか順番がまわってこない。
 
(平成二十五年七月二十九日)

ramtha / 2013年12月18日