筋筋膜性疼痛症候群・トリガーポイント施術 ラムサグループ

第二十六話「おくに飯塚」

 
四、五日お天気が続いた後、昨夜からの雨で今日は庭仕事も出来ない。久しぶりに身辺の整理をしたら十年ばかり前に記した次のようなメモが出てきた。
  「おくにはどちらですか。」日本人の会話ではよく出てくる質問ですね。ことに初対面の場合には必ずと言ってよい程訊かれるものです。日本人のルーツ趣味によるのかも知れませんが、多くの場合訊く方にたいして関心が無くても、当たり障り無い話題として尋ねる場合が多いようです。
  
  だから応える方も適当に「九州です」とか「北海道です」とか、ごく大雑把な返事をしても、大抵の場合は差し支えないようです。けれども私の場合「おくにはどちらです?」と訊かれると何時もなんと返辞したらよいのか戸惑ってしまうのです。
  
  「おくにはどちらですか。」と尋ねられている「くに」とは一体何でしょうか。ごく常識的には出生地とか本籍地とか言うものでしょうが、その言葉には先祖代々住んで来た所とか、その人が幼児期から成人するまでの、言わば人格形成期を過ごした所とか、現在なお親兄弟などが住んでいて墓参などに帰って行く所と言ったような意味合いが含まれているような気がします。
  
  最近では人口の都市集中やサラリーマンの転勤などで、遠隔地間の転住が頻繁に行われるようになって来ましたが、昔は、ことに戦前ぐらいまでは、日本人の大半が先祖代々の地に生まれ、そこで生涯を送りその地の土になったものでした。
  
  ですから「おくに」という言葉から連想される出生地、本籍地、歴代墳墓の地、少年期の思い出の地などと言ったものがすべて同一の土地であって、そうした諸々の要素をすべて含む土地がまさに「おくに」であったようです。
  
  ところが、私の出生地は北九州市八幡区ですが、少年期を過ごした思いでの地は、小倉区到津の西南女学院の構内教員住宅で、小学校はそこから戸畑区の明治小学校まで通っていました。
  
  また、佐藤家のご先祖様は累代蝦夷松前のお殿様に仕える典医であったとかで、お墓も函館にあります。私にとって本家というべき兄は大分県臼杵市に住み、私の両親も臼杵の小高い丘の上に眠っています。戸籍上の本籍地は昭和二十四年結婚した当時の住所である飯塚市立岩千三百番地となっています。
  
  こう言う次第ですから、私は「おくには?」と言う問いにはいつもどう答えるべきか一瞬ためらわずにはいられなかったものです。
  
  しかし、特に詳しく説明を要する場合以外は、戸惑いながらも「小倉です」と答えて来ました。小倉には小学校入学の前から中学四年生まで十年ばかり住んでいましたし、少年期の思い出の多い所で、私の「くに」として挙げるにふさわしいと思えたからです。
  
  しかし昭和四十六年上京して来て、こちらに住むこととなってからは「おくには?」と訊かれたら「飯塚です。」と答えることにしています。というのは、戦争から復員して昭和二十年、当時の麻生鉱業に入社して以来、東京へ転居するまで実に二十六年間のほとんどを飯塚で暮らして来たからです。
  
  飯塚で結婚し、三人の子どもも飯塚で生まれました。また二十代から四十代までの最も充実した歳月をすごしたのも飯塚でした。多くの優れた先輩や友人に巡り会えることも出来ました。嬉しかったこと、辛かったこと、さまざまなことがありました。
  
  いま静かに目を閉じると、牛が横たわったような竜王山の黒い山容、切り通しを走る筑豊線のレールにハラハラと散りかかる旌忠公園の桜、忠隈のぼた山の上に湧く夏の入道雲、遠賀川の河原を黄に染めてそよぐセイタカアワダチソウの花など、四季折々の風景が走馬燈のごとく浮かんできます。
  
  また、真夏の夜空を彩る遠賀川の花火大会や、周辺の町村からどっと人が繰り出して賑わう永昌会(年末に行われる飯塚商店街の大売り出し)も飯塚の思い出には欠かせないものです。
  
  あれを思い、これを思うと、今すぐにでも飯塚へ飛んで帰りたい気持ちです。そうです、飯塚は私の「くに」です。故郷です。
 
味気ない東京砂漠での暮らしの中で、自分の心を慰めるために記したメモである。
昭和五十年に横浜の郊外にある茅屋を購め、終の栖(ついのすみか)と覚悟してからは、飯塚遠くにありて想うものと諦めていた。ところが一昨年(昭和六十三年)はからずも長男一家がまたここ飯塚に移り住むようになり、先の事は分からぬことながら、私もいずれはこちらにと考え、この地に骨を埋めるべく、先頃飯塚霊園の一画を申し込んできた。これで故郷飯塚に眠ることになるだろうが、昔を想えば思いもかけぬ成り行きとも思われてくる。
 
前に記したように、八幡で生まれ小倉で育った私には、飯塚は全く無縁の地で、地名こそ地理の学習で知ってはいたが、自分の人生に関わりのある地になろうなどとは考えていなかった。
 
昭和十四年四月、私は福岡高校に入学、学而寮での高校生活が始まった。寮は二人一室で最初の同室者は、東筑中学出身の宮崎鐐次郎君であった。彼は私より一才年長ということであったが、痩身、色黒、丸眼鏡の奥で目玉が異様に底光りし、挙措動作も大人の風があって、私などよりずっと老成した感じであった。
 
その彼がある日「お前の親爺は女学校の教員か。教員の給料でお前の兄貴(当時兄は九州歯科医専に在学していた)とお前の二人も学校にやるのは大変じゃのう。給料はいくら貰うとるのかのう。」と言う。
 
そう言われてみるとなるほど入学できたのを唯喜んでばかりいるわけにはいかぬ。なんとか父の負担を軽くしなければと思い到った。しかし私にできることは、さし当たり家庭教師の口を見つけることぐらいだ。だが進学率も低い当時は、余程裕福な家庭でないかぎり、家庭教師を招く家など無く、まして初めての地でそれを捜すことはむつかしい。
 
そこで父の知人で私の保証人にもなって頂いた九大の笹月先生を訪ねることとした。先生に相談したところ先生は、見るからにひ弱な私に「家庭教師と学業の両立は大変でしょう。それより私が紹介してやるから麻生商店の給費生になっては。」と言われ、早速紹介状を書いて下さった。
 
先生から指定された日、呉服町から飯塚行きのバスに乗った。八木山を越える道路は現在の国道二0一号線のように整備されたものではなく、今では旧道と呼ばれている文字通り九十九折り(つづらおり)の坂道を上り下りして飯塚の地を踏んだ。たしか六月上旬の雨雲の垂れ込めた土曜日の午後だった。
 
バスの着いた所はどの辺りか定かではないが、多分吉原町の現在のバスセンター付近ではなかったかと思う。黒ずんだ水が流れる遠賀川を下に見て、芳雄橋であったろう長い橋を渡った。
 
麻生本社では玄関脇の応接室で、当時の緒方文書課長、吉鹿課長代理の面接があり、その後飯塚病院で健康診断を受けた。当時の病院は木造平屋で診察室前の廊下など照明設備があったのかどうか、薄暗い印象だけが残っている。
 
笹月先生の推薦状のおかげで即日給費生に採用されることとなった。小倉の両親にその報告をするため、帰りは筑豊線に乗るべく新飯塚駅に行った。駅舎のたたずまいは現在のものとあまり変わりはなかったように思うが、ホームに立って列車を待つ間に雨が降ってきた。
 
海に向かって開かれた明るい福岡からやって来た私には、四周山に囲まれた飯塚は暗いというのが第一印象であった。雨に濡れる車窓から眺める風景もなんとなく侘しく、学費の心配もなくなったと言うのに心は少しも弾まない。
 
麻生の給費生になっても尚こんな暗く貧しげな街で人生の大半を送る事になろうとは、その時は思いもよらぬことであった。まして私の忘れ得ぬ故郷になろうとは。まことに不思議な縁と言うのであろうか。
 
太平洋戦争開戦の翌年東京大学に入学したが、戦時下の教育短縮措置で、入学後一年半で三年となった昭和十八年九月には文化系学生の徴兵延期制度が撤廃され、十二月にはいわゆる学徒出陣で入隊した。
 
一年十ヶ月ばかりの内地勤務の後、復員したのは昭和二十年の十月の初めであった。大学の方は軍隊服役中の昭和十九年九月繰り上げ卒業となり、卒業証書が留守宅に届いていた。またこれに続いて麻生からは昭和二十一年一月採用辞令が送られて来ていた。
 
大分県臼杵市のわが家に復員した私は、何はともあれ麻生本社へ復員の報告にでかけた。終戦直後の混乱期で列車のダイヤも乱れがち、その日乗った筑豊線は直方止まりで、やむなく直方駅前の旅館に投宿。
 
外食券を出して夕食を頼んだが、外食券では駄目だという。仕方ないので非常用に母が持たせてくれた米を出してやっと夕食にありついた。
 
翌朝の汽車で麻生本社に辿り着き、吉鹿文書課長に復員の挨拶をするとともに、近く上京して大学へ戻る意向を申し述べた。形式的には卒業になってはいるものの、実質一年半でろくろく勉強になっていないので、もう一度やり直すつもりであった。
 
しかし吉鹿さんは「それは殊勝な考えだが、今の東京に行っても食料を確保することに追われて、とても勉強の段ではないでしょう。それより貴方のような復員学生が上三緒炭坑で実習を始めています。それに参加されたがいいでしょう。」と言われる。言われてみると尤もなことで、それに従って上三緒の実習に参加した。
 
半年の実習の後本社勤務となり、以来昭和二十四年から二年間吉隈炭坑に勤務した以外は、ずっと本社に勤務、社宅こそ旌忠公園、芳雄、柏森といくつか変わったが、二十数年間飯塚に住み続けることになった。
 
住めば都というのであろうか、当初あれほど暗く侘しい街と感じた飯塚であったが、住んでみれば意外に明るく、人情豊かな周囲の人々にも恵まれ、次第にこよなく好きな町に変わって行った。
 
そしてたまに出張で上京した折など、板付から八木山越えでの帰途、八木山展望台に車がさしかかり、眼下に飯塚の街が望まれると、自分の「くに」に帰った安らぎを覚えたことであった。いつしか飯塚は私の「おくに」になっていたのである。
 
 (平成二年)
 

ramtha / 2011年4月4日