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第二十七話「ひっくり返った魚籠(びく)」

 
昭和二十四年六月、麻生本社庶務課から吉隈炭坑労務係へ転勤を命ぜられた。私の後任には福岡出張所(当時はまだ福岡支店はなかった)から渡辺誠君が来ることになったが、彼が福岡での事務引き継ぎの後、赴任してきたので、私から彼への引き継ぎをして吉隈へ赴任したのは、発令から一週間後となってしまった。
 
赴任当日坑長室へ着任報告に行ったら、松田坑長は眺めている新聞の上からジロッと私を一瞥しただけであったが、その横に座っている今川副長にいきなり「なにをグズグズしとった。そげん吉隈に来るとが嫌なら来んでもいいぞ。」と一発かまされた。
 
「事務引き継ぎのため今日になっただけのことで、社規にある発令後一週間ギリギリだが、それを超えた訳ではないではないか」と私は内心大いに不服であったが、こんな分からず屋に言い訳をしても始まらないと思い黙って引き下がった。
 
着任早々まことに不愉快な気分であったが、今になって考えると、発令と同時に一応赴任の挨拶をし、その後渡辺君への引き継ぎをすべきだったのだ。どんな奴が来るか一日も早くその面を見たいのは、受け入れ側の上司としては当然の人情であろうし、何はともあれ先ずは赴任の挨拶をして、赴任先上司の指揮下に入り、その了解を得て事後の行動をするのが組織人としての常識であろう。
 
当時そこまで考えが及ばず、小言を言われた今川さんに対して不服に思ったのは、私の未熟の致すところでまことに恥ずかしい限りである。
 
吉隈炭坑労務係では、当初二百四、五十名の単身鉱員を収容する浩星寮の舎監を命ぜられた。入社後半年ばかり上三緒炭坑で、採炭や掘進などの坑内作業や、採掘、工作、労務など一通り現場事務所の実習はしたものの、その後はずっと本社勤務で、企画室、厚生課、庶務課などを漫然と過ごして来たに過ぎない。
 
炭坑の労務係がどのようなものか、抗員寮の舎監が何をすべきかなど全く分からぬまま、男性係員三名、女子事務員一名を指揮して二百五十名に及ぶ寮生の管理に当たることとなったのである。
 
前任者の大瀬義幸さん(当時すでに相当の年輩でこのとき赤坂炭坑へ転出)からは、寮生一人一人について、性格、前歴など懇切に引き継ぎがあったが、それは軍隊の作戦要務令で言う特別守則であって、一般守則に当たる舎監の任務などについては、労務係の常識として説明はなかった。
 
それを尋ねるのは自分の無知をさらけだすようで憚れたので、何も訊かぬまま、まあなんとかなるだろうと安易な気持ちで勤務を始めた。
 
盲蛇に怖じずと言うのであろう。当今なら事務分掌規定やマニュアルなどが整備されていることだろうが、そういうものの無かった当時としては、発令と同時に新任務についての必要な知識を予め収集しておくべきであったのだ。今にして思えば何ともはや、いい加減な心構えでよくまあ平然と給料を頂いていたものだと思う。
 
当時麻生鉱業は愛宕、山内、上三緒、綱分、吉隈、久原、岳下の八炭坑で採炭していたが、吉隈は主力炭坑でその出炭が最も期待される所であった。典型的な労働集約産業である炭坑の生産は、一にかかって坑内直接夫の就業率如何による。
 
ところが、当時吉隈の就業率は社内で一番悪く、八十%に達しない有り様であった。とりわけ気まま暮らしの単身者の就業は極端に悪く、どうかすると六十%を割る日すらあった。当時の労務係長H氏は休みがちだったので、私は直接坑長室に呼びつけられて、毎日のように
今川副長から小言をくらう羽目になった。
 
エネルギー革命の波を被って、筑豊炭田から炭坑が姿を消し、わずかに余命を保っていた北海道などの炭坑も次々に閉山していく今日、炭坑の坑内労働など世間から忘れ去られようとしているが、それは随分と過酷なもので、今の若い人たちには想像も出来ないことだろう。
 
腰に提げた重い電池にコードでつながるキャップランプを帽子に着けて、抗口から暗い急傾斜の坑道を下がっていくと、途端にプーンとカビくさい臭いが鼻をつき、天井から水滴が首筋に落ちてくる。所によっては瀧のように雨が降っている箇所もある。
 
湧水で坑道はぬかるみ、地下足袋(その頃はまだ保安靴など使用してなかった)の中までグショグショになる。だから一旦水虫に罹るとまず癒らない。
 
主要坑道の一部はトンネルのようにコンクリート施工のしてあるところもあるが、坑道の大半は木枠の支柱が組まれているだけで、天井からパラパラ落石してくるのは常のこと、時には崩落して落盤事故になることもある。
 
切羽(きりは=採炭現場)や切羽に至る片盤坑道(水平坑道)は経済的採掘のため、必要最小限の高さしかなく、余程注意していないと枠や天井に頭をぶつけてしまう。炭丈(すみたけ=炭層の厚さ)の極端に低い切羽に至っては、寝そべって作業しなければならないような所もある。
 
換気扇による換気はしているものの、炭塵の舞う採炭現場や岩粉の飛散する掘進現場までは及ばない。炭塵の多い切羽で作業した後などは地上に上がって何度もうがいしても、そのたびに真っ黒い痰や唾が出たことであった。
 
うかつに古洞(ふると=過去の採掘跡)に掘り進むと、そこに溜まった大量の水が突出して、坑道もろとも作業員を呑み込んでしまうことになる。
 
坑内に湧出する地下水は、二十四時間ポンプで揚水しているが、停電や故障でポンプが止まるとみるみるうちに増水し、水没の危険に曝される。その他、小さなケガや事故は日常茶飯事だ。
 
こんな労働環境で仕事をする直接夫は、普通三交代制(一番方:六時~十四時、二番方:十四時~二十二時、三番方:二十二時~六時)勤務だから、人間らしい通常の生活が出来るのは三週間のうち一週間だけ。これでは多少賃金が多く貰えても坑内作業が嫌われるのは尤もである。
 
扶養すべき家族のない単身鉱員にしてみれば、月に十日も働けば自分一人の生活には事欠かない。神経痛や胃炎などもっともらしい病状を訴えて医師の診断をかち取れば、休んでいても健康保険から傷病手当金が支給される。そんなこんなで寮生の就業率は極めて悪い。
 
本社から出炭を督励される副長がいきり立つのも無理からぬところだが、副長に尻を叩かれて寮生の就業をせき立てなければならない私もやりきれない。
 
ズル休みをしている寮生を呼びつけては出勤を督励する。それに応じて翌日から出勤してくれる者もいるが、私の前では固く誓っておきながら、翌日から途端に神経痛になる者もいる。
 
中には暫く休み続けたのでエブ(エビショウケ=石炭をかき集めて入れる竹製の籠)やカキ板(石炭をかき集める道具)などの作業具(こうした物は鉱員の個人持ちであった)が無くなってしまったので、それを購入する金を貸してくれと言う者もある。
 
出勤を約束させた手前、貸してやらぬわけにはいかない。なけなしのポケットマネーからしぶしぶ貸してやる。翌朝出勤したかと居室を覗いてみたら、同室の寮生が騒いでいる。私の貸した金はもとより、ついこの頃落札したとか言う頼母子講は踏み倒し、同室の者の財布まで失敬して夜逃げをしているではないか。
 
唖然としていると、同室の被害者達はこの始末をどうしてくれると、まるで私が共犯者であるかの如くにらんでいる。私のようなおめでたい人間はそういう連中から見れば、葱を背負った鴨であったに違いない。何度もこの手の被害に遭ったものである。
 
こうした悪質な者はそう多くいたわけではないが、病気やケガでやめる者、坑内労働の辛さに耐えかねて退職して行く者などが後を絶たず、募集係がいくら補充しても入船千艘出船千艘という有り様であった。
 
 
出勤成績の良い寮生の不足を嘆いていたら、募集係の芳井国男さんが「今度は貴方が募集に行ってみませんか。」という。募集という仕事を一度経験してみるのも悪くないと思ったし、それにもまして自分で連れてきた寮生なら、自分の言う事をきいて真面目に働いてくれるのではないかとの期待もあって出かける事にした。
 
その時は熊本県の菊池と阿蘇の職業安定所を通じて、二泊三日の出張募集の結果、一、二炭坑経験のあるいわゆる渡り坑夫もいるようだが、大半は純朴そうな農家の次三男など二十名ばかりを確保出来た。
 
初めての募集にしてはまずまずの成績であったが、中には炭坑の労災事故を危虞する親もいて、その説得に苦労したりした。だから翌朝果たして何人集合場所である熊本駅に揃ってくれるか尚一抹の不安があった。しかし、それは幸いにして杞憂に終わり、全員を引率して汽車で帰る時は凱旋将軍の気分であった。
 
黄昏の碓井駅で下車、選炭場、郵便局、売店、本事務所など、寮へ至る沿道の説明しながら三坑事務所の前あたりに来ると、浩星寮に灯りがともっている。しかしこころなしかどうも様子がおかしい。
 
「あれが君たちが今夜から生活する浩星寮だ。」と説明するところだが、何となく躊躇われて、そのまま寮まで来てしまった。
 
係員の有吉君が事務所の窓から私に何やら目配せしている。何事か分からぬながら、全員を玄関前に待たせて事務所に入ると、「悪い日にぶつかりましたね。」と有吉君が言う。
 
彼が小声で説明するところによれば、今朝の三番方の作業中に落盤事故があり、寮生一人が殉職、今夜はそのお通夜だと言う。凱旋将軍の高揚した気分はいっぺんで奈落の底へ突き落とされてしまった。
 
炭坑は危なくないかと何度も私に念を押していた母親の顔が脳裏をよぎるとともに、どうしたことが、ひっくり返った魚籠(びく)から飛び出したフナが、白い腹を見せて跳ね回っているシーンが一瞬鮮やかに思い浮かべられた。笠智衆と子役の少年の姿が傍らにあったようだから何かの映画ででもそんな場面を見たことがあったのだろうか。
 
ともあれ、起きてしまった事態は今更どうしようもない。今夜のお通夜は新入寮者の目から隠し得ないことだし、それが彼らに与えるショックも火を見るより明らかである。ともすれば落ち込みそうになる自分の気持ちを引き立て引き立て、「こうした事故は滅多に無いことである。天災地変はどこにでもある。君たちがこれで不安がることはない。」と力説したが、所詮は空しい演説であった。
 
翌日には半数以上が入山を辞退して、そそくさと帰郷してしまった。そして私に残されたものは、しぶとく居座った渡り坑夫(私の鑑定を超えて五、六名もいたが)の出勤督励と翌日帰郷した十数名の往復滞在に要した費用の精算について、上司の承認を取り付けるというまことに気の重い仕事であった。
 
(平成二年)
 

ramtha / 2011年4月3日