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第三十話 「上三緒進駐軍」

終戦後復員した私は、軍隊服役中に一旦は繰り上げ卒業となってはいたものの、わずか一年半の在学、それも怠けがちな遊学に過ぎなかったので、いま一度大学に戻り勉強のやり直しをするつもりであった。
 
しかし、「廃墟と化した東京では食糧確保に追われて勉強の段ではないでしょう」と言う吉鹿さんの勧めに従って、当時麻生の復員学卒社員を集めて行われていた、上三緒炭坑での実習に参加することとなった。
 
あれはたしか、昭和二十年十月十六日のことだった。本社で辞令をもらった後上三緒炭坑へ向かった。文書課の薙野芳雄君が新飯塚駅まで同行し切符を買ってくれた。
 
跨線橋を渡って後藤寺線のホームに立つと、代用客車が止まっている。都城から臼杵へ復員したときも、暗く汚い貨物列車に乗せられたが、ここでも戦時中の消耗による客車不足のため、有蓋貨車を転用した代用客車であった。
 
明かり取りのため車両の側壁の一部を切り取って窓としてあったが、ガラスをはめてあるわけではないから、機関車の煤煙はもとより雨風も振り込み放題という代物であった。
 
また貨車の引き戸は重く、女子どもでは容易に動かせないのと、明かり取りのためもあってのことかと思われるが、出入り口は走行中も開放されたままであった。走行中の振動で乗客が振り落とされたりしないように、その出入り口には頑丈な横木が取り付けられていた。
 
だから乗降時には腰を屈めてこの横木の下を潜らねばならない。駅のホームより高いこの代用車の車台に足を掛け、勢い込んで乗り込もうとすると、しばしばこの横木に頭をぶつけて痛い思いをしたことであった。(そのためであろう、暫くしてこの横木は紐に取り替えられていた。)
 
もともとが貨車なのだから客席などは無い。乗客はみんな立っている。電車のようなつり革や手すりも無いから不安定この上ない。だから年寄りや子どもなどは、床に座り込むものもいる。そんな列車に揺られて上三緒駅で降りた。
 
ホームに降り立つと、線路を挟んだ向こう側には、頭上にのしかかるように貯炭ポケットが並び、その底から真っ黒な雫がしたたり落ちている。右手の方には引き込み線の向こうに坑木が積み上げられ、その端には坑木の下敷きになったコスモスの花が懸命に頭をもたげているものの、はかなく風に揺れていた。
 
マッチ箱のように小さな駅舎の改札口を出る。駅前にわずかの民家があるが、その後は田圃が広がり、その先に嘉麻川の土手が横たわっている。
 
改札を出て右へ少し行くと、道は踏切を渡り選炭場の横に架かる陸橋の下へと続く。水たまりのある狭く暗い道だった。右手に粗末な採鉱事務所などが見える坂を上ると、小高いところに本事務所が見えた。
 
その頃炭坑は「一六休み」と言って、毎月一と六の付く日を休業日としていたが、その日は休業日に当たり、事務所には僅かな人しかいない。指導員の福井さんを訪ねるように指示されて来たのだが居られない。
 
どうしたものかと思案していると「ともかく宿舎の方へ」と矢絣のモンペを着た女子事務員が案内してくれる。後日知ったところでは、労務係の三好さんという女性であった。彼女について、実習生の宿舎「報国寮」に行く。
 
戦時中は韓国人労働者の宿舎であったとかいうその寮は、本事務所前から三菱鯰田炭坑の六坑へ通じる道から左へ入った所にあった。平屋建ての寮の玄関に入った時、そこにモンペにエプロン、ゴム長姿の小太りの女性がいた。栄養士の梶原女史と紹介され、彼女はすぐに寮長の白水さんを呼んできてくれた。
 
初めて見る白水さんは陸軍の将校服を着ていたが、背が高くがっしりした体格で、クルクルと動く大きな目玉と博多弁丸だしの陰りのない大きな声が印象的であった。
 
白水さんは見るからにひ弱そうな私を見て、こんな奴が炭坑に入っても何の役に立つまいと思われたのではなかろうか。私を見て一瞬戸惑った表情をされたが、早速私の入居すべき部屋を決めてくれた。その後割り当てられた部屋に誰が案内してくれたのか、部屋に入った時の模様などは憶えていない。
 
この寮では一年ばかり生活したというのに、建物の構造配置などおぼろげな記憶しか無い。そのおぼろげな記憶をたぐると、玄関正面に小さな事務室があった。そこには明石君という二十歳ばかりの女性事務員がいたようだが、どんな仕事をしていたのかあまり記憶が無い。
 
玄関から右に延びる通路の先に浴場が、左にはコンクリートのたたきの廊下が続き、それにそって左側に食堂、炊事場があり、その先に梶原女史の居室があったようだ。彼女はどういう家庭環境にあったのか知らないが、年の離れた小学生ぐらいの弟がいた。両親を亡くし弟の親代わりをしていたのだろう。そんなことで、まだ若かったのに我々の寮母といってもおかしくない貫禄を備えていた。
 
食堂は詰めれば五、六十人は収容できる広さがあり、食卓は夜間はピンポン台に変わり、寮生がピンポンに興じていたことが思い出される。廊下を挟んで食堂と反対側に確か三棟、寮生の居室が延びていた。一棟何室だったか定かではないが、多分五室、三棟で十五室ぐらいあったのではなかろうか。
 
棟間の中庭は薩摩藷畑になっていたようだ。居室の広さは六畳間と八畳間とがあり、壱室に三、四人入居していたようだから、多いときは五十人あまりの実習生が生活していたことと思う。
 
戦時中は学卒の新入社員のほとんどが、入社後、日ならずして応召入隊するという有り様で、どこの企業も実働人員をはるかに超える在籍社員を抱えていたようである。麻生の場合はその上、戦時中、軍の要請により、南方占領地の炭坑開発に社員を派遣していた事情もあり、本来の会社規模に比し、相当過大な在籍社員を抱えていた。
 
終戦と共にその応召社員が一度に復員し会社に戻って来たわけである。社員とは言うものの、ほとんど実務経験のない大量の復員学卒者の処置には会社も困惑したことと思う。聞くところによれば、当時、某中央大手企業などでは、復員船の帰国到着を待ち受けて、上陸する復員社員に即日解職辞令を手渡ししたところもあったようだ。今考えると随分な仕打ちと思われるが、労働組合も労働基準法も無かった当時としては、不思議とするには当たらない事であった。
 
そんな中で麻生では、分不相応な大量の学卒復員者を、そのまま受け入れ収容したのが上三緒炭坑の実習生であった。終戦に伴う韓国人労働者の大量離職による労働力不足という事情もあったであろうが、戦争中の無理な乱掘と敗戦による経済混乱で疲弊しきった会社としては、随分思い切った処置であったろう。オーナー会社の特質と太賀吉社長の英断があったればこそと思われる。
 
実習教育の指導には、社長の実弟麻生典太専務を最高責任者に、技術系の福永安則さんと事務系の福井昌保さんがその補佐として我々の指導に当たられた。また、作業現場の指導員として山崎鎮雄さん、明石政邦さん等がおられた。
 
当初三ヶ月ばかりの実習では事務、技術を問わず、五、六名ずつのグループ毎に採炭、掘進などの坑内作業、巻き揚げ機の操作、排水パイプの取り替えなど全くの作業員業務をさせられた。
 
実習生の中には、会社は我々を抗員代わりに使って怪しからんと不平を言う者があり、中にはこんな馬鹿らしいことを何時までもされるかと言って退社して行く者もあったが、生来あまり向上心のない私は、肉体労働による疲労は感じたものの、思い悩むことの少ない現場作業に不満はなかった。
 
むしろ見るもの聞くものすべて物珍しく、ことに作業を共にする坑夫の世間話は私の知らない彼等の暮らしぶりや、その世界の哀感を知るよすがとして興味があった。しかし、粉雪のちらつく夜、暖かい寝具から抜け出し、冷たく重い削岩機の鑿を手に、木枯らしに震えながら雁石坑へ急ぐ三番方は、やはり辛く嫌なものであった。
 
こうした現場作業も三ヶ月で終わり、二十一年の一月からは事務系、技術系に別れての業務実習となった。事務系だけで二十名ばかりもいたかと思うが、四、五名ずつのグループに分かれ、経理、労務、資材、採鉱内勤などの事務について、それぞれの現場事務所を巡回して勉強する。
 
しかし、受け入れる側の職員は迷惑至極、日常の忙しい仕事の合間に我々の質問に応えねばならない。仕事の妨げをすまいと思うと、実習生同志でつまらぬ雑談をして時間を潰すことになる。それはそれで仕事をしている職員には、随分目障りな事であったろう。
 
そんなことで福井さんから課せられたレポートだけは、何とか提出したものの、内容のある実習とはならなかった。私としては、当初三ヶ月の作業体験の方が得る所が多く、ことに後日労務担当者として仕事をする上で、この時の体験が大いに役立ったことであった。
 
いずれにしても、自宅通勤者を含めピーク時には六十名を超える学卒実習生が、小さな上三緒炭坑に集結したのだから、現場の職員にとって甚だ迷惑なことであったろう。
 
当時の麻生では戦前からの身分制が存在し、職員の中にも見習、助手、傭員、五等二級、五等一級、四等二級、四等一級、三等、参事補、参事といった資格制度があった。
旧制中学校新卒者は見習をスタートとするが、高専卒は五等二級、大学卒は五等一級付け出しとなっていた。
 
当時上三緒炭坑の管理職である係長クラスでも四の二、または五の一、叩き上げの売店の係長などの中にはまだ五の二の人がいたくらいだから、いかに学歴偏重の時代であったかが分かろうというものである。
 
実習期間は特殊見習と称していたものの、全員が五の二の資格を有する、兵隊の位で言えば将校である。その将校が五、六十名もドカドカと乗り込んで来たのだから、小さな上三緒の炭坑社会に大きな波紋を惹き起こしたのは当然のことであった。
 
しかも実習生の多くは、会社秩序の中での訓練体験はなく、逆に陸海軍の将校経験者として、年長の部下を顎の先で使う悪習のみ身に付けており、炭坑社会にとってはまことに始末の悪い存在であったに違いない。
 
触らぬ神に祟りなしと言うことであったろう、いつとはなしに当時の占領軍になぞらえて、進駐軍と言うあだ名が我々実習生の別称とされていた。
 
現場職員に迷惑視された我々進駐軍も、炭坑の若い女性にとっては関心と期待の対象であった。長い戦争で男という男は戦地に駆り出され、結婚の対象となるような男のいない時代が続いた後に、降って湧いたように五、六十人もの独身男性が一度に現れたのだから、彼女たちは狂喜し、異常な関心を寄せたのも無理からぬことであった。
 
事務所の女性職員、選炭場の姐ちゃんをはじめ、坑所内の女性が入れ替わり立ち替わり報国寮に出入りし、中には寮生の下着の洗濯までする者も出て来る有り様。さあこうなると治まらないのが炭住街の青年達である。かねて目を付けていた娘達が、実習生の後を追いかけ、自分たちには見向きもしなくなったと、彼等のストレスは蓄積するばかり。
 
実習生と青年達との間に不穏な空気が漂うなかで、戦後初めての上三緒炭坑運動会が催された。当日の呼び物は棒倒しである。誰がそんな企画をしたのか知らないが、上三緒青年団と報国寮の寮生との対抗戦が組まれている。青年達にしてみれば、日頃の退勢を女性環視の中で行われるこの一戦に挽回せんものと、いやが上にも気負い立つ。
 
非力な私はもちろん観衆の中にいたが、観客席からは炭坑娘の黄色い声援が飛び交い、昂まる興奮の中で行われた。しかし、戦争帰りの血気盛んな青年将校で編成された進駐軍が、圧倒的な力を発揮して勝利を収めた。
 
上三緒青年団にはまことに気の毒な結果となったが、間もなく実習修了と共に進駐軍の大半は他の事業所に配置され、上三緒を後にした。上三緒の女を取られてしまうのではないかと、あれほど気に病んでいたが、その後進駐軍と結婚した上三緒の女性は、結局のところ二人に過ぎなかったようである。
 
あれから四十五年、当時の実習生の中にはすでにあの世に旅立った者もあり、その他の者もほとんどが年金生活の仲間入りをしている。あの日敵陣の棒によじ登って奮戦していた青年も、観客席から赤いネッカチーフをちぎれんばかりに振っていた女の子も、どうして居るだろう。今日あたりはどこかで孫を相手に日向ぼっこをしているのかも知れない。
 
(平成二年)

ramtha / 2011年3月31日