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第三十一話「報国寮の人々」

上三緒進駐軍は、復員してくる学卒社員を次々に収容して行ったから、実習参加の日もそれぞれバラバラであったが、事務系のもの、技術系のものなど専門職種もさまざまであった。また、過去数年間にわたって応召した者が、終戦によって一度に復員してきたため、年齢もいろいろ、年長、年少の差は十年もあったように思う。
 
報国寮に私が入寮した当初は四人一室で、諫山一男、渡辺一夫、緒方定義の諸君と同室で会った。諫山さんは五高、九大法文科の出身で私より五、六才年長、すでに妻帯の身で、休日には奥さんの待つ浮羽の実家に帰るのを楽しみにしていた。おとなしく非常に謙虚な方で、我々の下らぬ雑談も傍らで聞いていることが多かったが、時折ポツリとユーモラスな言葉を漏らし、眼鏡越しにニッコリされた笑顔は忘れられない。
 
後年、鉱務課長、計算課長、保険課長などをされたが、どちらかと言えば風采の上がらぬ好人物のため、社内では終始地味な存在であった。私とは何時も職域を異にしていたので余り交流はなかったが、日頃心に鬱積したものがあったのであろう、時に酒に酔い痴れて街をさまよう姿を見かけたことが幾たびかあった。
 
後に聞いたところでは、当時会社は石炭斜陽化による経営困難のため、社会保険料の納入も滞る有り様、保険課長の彼はその都度役所に出向いて、納入期限の猶予を懇願していたようである。その頃の上司であった熊谷さんは「諫山君はあの人柄だから役人にも会社の苦境を素直に理解して貰えたが、他の者ではとても聞いてはくれなかっただろうよ。」と話されていた。
 
自分よりずっと年下の役人に、土下座をするようにして陳弁これ努める姿が思われる。交際費の支出も極度に抑制されていたので、自分のポケットマネーで役人の接待をしていたとも聞いたことがある。
 
私が上京してからは暑中見舞いと年賀状の交信のみとなったが、もう十年以上も前のことだったろうか、年末に奥さんから「喪中につき」の挨拶状を頂き亡くなられた事を知った。
生前は余り深く話すこともなかったが、こうなってみると一度ゆっくり彼の苦労話を聞いておきたかったと悔やまれてならない。
 
渡辺君は痩身長躯、全身これ闘志といった感じであったが、もっともらしい口ぶりと、胡座をかいて煙管に煙草を詰めながら、目下の者の報告を聞いているかのように肯くその態度から、当初私などより十才も年長かと思った程であった。後に私より一才しか年長ではないと知り、その老成ぶりに驚いたことであった。
 
彼は高等小学校卒業後、貝島炭坑の給仕をしながら勉強し、苦学力行して日大専門部を卒業したとか。そうした彼の強い上方志向が、彼の態度にいささか尊大なものを感じさせていたのかも知れない。日常の会話にしばしば見られる彼の大仰な肯きに、誰言うともなく「渡辺の合点首」と言う綽名が奉られたことであった。
 
後年彼が吉隈炭坑の労務課長をしていた時、子ども連れで彼をその事務所に訪ねたことがあった。その帰途、当時小学生の長男が「お父さん、あんな偉い人に馴れ馴れしい口をきいていいの。」と言ったことだったが、子どもの目にも彼は私より随分年長の偉い人に見えたのであろう。
 
彼は労務畑を歩き、芳雄製工所、綱分炭坑、吉隈炭坑などで労務課長を務めた後、嘉麻運輸の取締役総務部長に就任、運転手労組相手の労務対策に苦労していた。
 
昭和四十三年私が麻生セメントから嘉麻運輸に転出して彼と初めて職場を共にすることとなった。しかし翌年私は政策科学研究所出向を命ぜられ上京することとなったので、その間僅か一年余に過ぎなかった。しかもその短い期間に、私は鼠蹊ヘルニアと膀胱結石と、二度も入院手術をしたので、ろくろく彼をバックアップすることなく、逆に彼の世話になったことであった。
 
彼は若い頃から酒豪で聞こえ、鯣の足一本あれば、一升空けると言われたものであった。それ程の酒好きだったが、きわめて健康で彼が病気で休んだなどと言う事はついぞ無かったように思う。あれは私が上京した翌年だったろうか、突然彼の死を聞いてびっくりしたことであった。
 
聞くところによると、会社の同僚と川釣りに出かけての帰途、車の中で心筋梗塞の発作を起こし、病院に担ぎ込んだ時はすでにこと切れていたとか。あれ程元気だった彼がどうしてと、信じられない思いだったが、今から考えてみると、なかなか思うようにならない労務対策に、人一倍負け嫌いな彼のストレスが死を早めたのではなかろうか。まだ五十を越したばかり、あまりにも早い死の訪れであった。
 
緒方君は地元飯塚市伊川の農家の長男で、嘉穂中学からラグビーをしたい一心で、はるばるラグビーの名門秋田礦専の機械科に進んだということであったが、色の黒いズングリしたその体躯は、いかにもラグビーのフォワードにふさわしい体つきである。少し吃音気味で、瞬きしながら話すその語り口は、いかにも素朴で誠実さを感じさせるものであった。
 
終戦直後のその頃は、炭坑では加配米などあり、一般社会に比べ食料事情では恵まれた方であったが、それでも賽子(サイコロ)のような形のメリケン粉の塊に米粒がくっついたのが主食であり、藁を原料にした真っ黒い饂飩のような海草麺などと言うものを食べさせられる有様で、一億飽食時代と言われる今日からは想像も出来ない貧しい食事であった。時折食卓に現れる薩摩藷の蔓の油炒めなどは、美味しい副食であったことを思い出す。
 
そんな事だから休日毎に帰宅しては持ってくる緒方君の野菜は、私達の待望の的であった。彼の担いで来た野菜に、私が復員時に貰った缶詰を開け、鍋物をしては空腹を満たしたことであった。
 
どこの部屋でも同様な事をしていたようだが、こうしたゴッタ煮の鍋料理をいつしか「人格鍋」と称したものであった。人間空腹時は感情もトゲトゲしくなり、些細な事でも腹を立てたり、喧嘩をしたりするものだが、満腹すると心は和やかになり人格円満になることから、名付けられたものである。名付け親は七高、九大冶金科出の万年青年小林清君だったような気がするが、はて誰だったか定かなところは記憶にない。
いずれにしても緒方君が実家から運んでくる米や野菜のおかげで、私達の部屋はしばしば人格円満になることができた。
 
緒方君は芳雄製作所の取締役を最後に引退、伊川の自宅で余生を楽しんでいるが、先頃彼と伊川温泉の湯に浸かりながら昔語りをしたことであった。無類の愛妻家である彼は、毎年奥さんとフルムーンの旅に出かけているとか。
 
私達の隣室には、私の福高での先輩木庭暢平さんと、川波、黒川、新開(後の徳納君)と言う事務系専門学校の諸君がいた。三人はいずれも私と同年輩であったが、木庭さんは四年ばかり年長であり、極めて几帳面で綺麗好きな人だったから、室内を散らかすと言っては、三人はよく叱られていた。外から帰ってきた彼らが、木庭さんの存否を窺いながら、恐る恐る部屋に入っていた姿が思い出される。
 
木庭さんは後年、社長秘書、経理部長、東京支社長、常務取締役などの要職につかれ、麻生太賀吉社長の側近として、石炭、セメントの分離、石炭部門の終息といった最も難しい時代を切り抜けられたが、私個人としては労務課時代に直接指導を頂いたばかりでなく、麻生在職中終始お世話になったことであった。在職中の激務と心労から引退後体調を損なわれたようだが、一日も早く全快されて昔ながらの元気な声を聞かして頂きたいものである。
 
黒川君は実習中に、川波君も在社二、三年で退社し他に転じて行ったが、徳納君は労務畑を歩き、嘉麻運輸で僅かな間であったが職場を共にした。若い頃はスポーツマンできびきびした好青年であったが、癌におかされ五十代の若さであの世に旅立ってしまった。
 
当初寮長であった白水さんや、木庭、諫山といった先輩の方々は、実習途中で実務に就くため他の事業所へ転出して行き、後任の寮長は土谷真澄さんがされることとなった。土谷さんは当時すでに妻帯されており、正月休みに吉井町の留守宅で奥さんが首を長くして待っておられたに違いないが、自宅が遠距離のため帰省できず、寮で侘しく越年する僅かな寮生(私もその一人であったが)と行動を共にされたことであった。正月を迎える度にその心優しい円満な人柄が思い出される。
 
土谷さんは熊本工業高校出身の採鉱屋であったが、後年本社の課長や坑長などをされていたので、職員人事を担当していた私は、仕事の上でも接触することがあり、ずいぶんと手助けして頂いたことであった。
 
昭和四十六年私が上京してからは暫く交流が途絶えたが、昭和五十四年ひょっこり私を事務所に訪ねて来られた。彼の話では麻生石綿の社長を退任、日本パルプ板工業組合の専務理事に就任し、住まいも横浜へ移したとか。この時からまた交流が復活し、今日に及んでいるが、顧みれば約半世紀に垂らんとする間、彼に一度も不愉快な思いをさせられた事が無い。今なお、難しい業界の纏め役を果たしておられるのも、その円満な人柄によるものであろう。
 
 
入寮後どのくらい経ってからだったろうか、部屋替えがあり、今度は高井敏夫、広瀬洋三の両君と同室することとなった。佐賀高校、九大採炭科出身の高井君は年も私と同じ、痩せぎすの体つきも私と双璧で、果たして採鉱係が勤まるだろうかと思われたことであった。
 
彼は無類の読書家で、青白い額に垂れ下がる前髪をかき揚げながら、三木清の「人生論ノート」などを読んでいた姿が今も思い出される。彼とはその後本社の松月寮や紅葉寮でも生活を共にし、私の人生で最も長く、最も深く交友を続けることとなった。
 
彼についての思い出は数々あるが、昭和二十二年の冬、紅葉寮にいた時のことである。ある休日の昼下がり、寮の食堂の大きな豆炭七輪を囲んで何人かの寮生が雑談をしていた。
その時昼食の後片付けをしていた若い女中に、寮生の一人がふざけかかり、そのはずみで七輪が倒れ、真っ赤に灼けた豆炭が畳の上に散乱した。皆総立ちの大騒ぎ。
 
倒れた七輪はすぐ引き起こしたものの、灼けた豆炭は手がつけられない。炊事場に十能を取りに走った者もあったが、大半はオロオロするばかり。畳からは煙も立ち始める。その時食堂の片隅で新聞を読んでいた高井君が立ち上がり、素手でその灼けた豆炭を拾い上げ七輪に戻し始めた。私も加勢しなければと思うものの手を出す勇気がない。そのうちに十能を取りに行った者が駆けつけて来たが、そのときは既に散乱した豆炭の大半は、高井君の手によって回収されていた。
 
おかげで畳の一部を少し焦がしただけで大事に至らなかったが、その間一同ただ唖然として彼の行動を見守るのみであった。作業を終えた彼は、卓上の醤油瓶の醤油をおもむろに掌に塗り平然としている。心配になった私は「大丈夫か」と尋ねたが、彼は「うん、ちょっとヒリヒリする」と応えただけで何事も無かったような素振りでいた。
 
私はこの時、今まで知らなかった彼の一面を覗き見た思いであった。
高井君との長い交友では、私は随分彼の世話になってきたが、後年次男の就職に際しても、またまた彼の好意に甘えてしまった。
 
久留米工専出の広瀬君は私達より三、四才下でもあり、おそろしく真面目な堅物で会話も少なく、ともすれば三人部屋の中で彼一人取り残されるような形となった。今になって、まことに気の毒なことをしたと言う思いが切なるものがある。
 
時折窓辺に立ってウォーッと大声を発したりしていたが、その後ろ姿には彼の満たされぬ青春の哀愁がにじみ出ていたような気がする。幸せな晩年を過ごしていることを祈るばかりである。
 
高井君と同様、長い付き合いとなったのは久永知一君である。中津商業、長崎高商出身の彼は、私達より二才年下であったが、えらく頭の切れる男であった。部屋も別だった彼との交流がどういうことから始まったのか記憶がないが、何時とはなしに親しく交際するようになった。
 
土谷さんが家族を呼んで社宅に引き移った後、私が寮長を引き受けることとなったとき、彼が会計としてよろず不器用な私を助けてくれたことであった。後に彼は高井さん共々筑肥鉱業所に赴任した時期があったが、本社へ出張してくる度に松月寮の私の部屋に訪れて来た。
 
私と高井君が紅葉寮に居た頃、彼は隣の大浦寮にいて、よく往来して麻雀やカルタ取りに興じたものであった。カルタ取りと言えば、それまで百人一首を全然と言っていい程知らなかった彼が、正月休みの間に憶え、休み明けの寮対抗戦では他人を寄せ付けない活躍をしたことを思い出す。
 
彼の速成記憶法は、「秋風に、洩れ出づる」式の、上の句五字と下の句五字を中抜きで記憶しているのであった。だからなまじ上下全部を記憶している者より、上の句の出だしを聞けばすぐ下の句につながり、取るのが早い理屈である。彼の秘伝を開かされ私は、ただただ彼の頭脳に驚嘆敬服したことであった。
 
彼は経理から営業に転じ、福岡、大阪、広島、東京など各地を転々としたが、その行く先々で私は彼の家にお邪魔して、奥さんに幾たびも迷惑を掛けたことであった。
 
地元出身者の多い報国寮の中で、なんとなく都会的な雰囲気を感じさせる一室があった。その部屋には貴島隆、伝法健、大羽八郎、秋葉圭五の諸君がいた。
 
貴島さんは九大工学部出身で、たしか海軍の機関科将校だったと思うが、桁外れの堅物と言った印象であった。伝法君も東北大学機械科の出で、堂々たる体躯、いかにも品行方正、学術優等、模範的エンジニアのイメージであった。九大地質科卒の大羽君は色白、丸顔の円満かつ上品な感じ、秋葉君は東京商大卒業の江戸っ子で、見るからにアカデミックな垢抜けした風貌であった。
 
まわりの部屋でマッカリを呑んで馬鹿騒ぎをしている時も、その四人の部屋だけはヒッソリと各々読書でもしているのではないかと思われるほど静かで、がさつな私などにはちょっと近寄り難い部屋であった。
 
貴島さんは後年ブラジル・ジャテック社に出向、異国の地で長年随分苦労されたが、ブラジルで成人された子どもさん共々、彼の地に永住することとされたようだ。今年(平成二年)七月たまたま一時帰国した彼と、東京でビールを酌み交わし、懐旧談に花を咲かせる機会を得たが、古希を迎えて尚その真面目な語り口には変わりはなく、アルコールもあまり嗜まれないのも昔のままであった。
 
伝法君は当時秘書課の才媛と誉れの高かった井上女史と結婚、若くして上三緒炭坑の工作係長になったり、技術部長の城戸義雄さんと一緒に、欧米視察に派遣されるなど、将来を嘱望されていたが、東京樹脂社に転出後は健康を害し、その才能を十分に発揮できなかったのは、まことに惜しい事であった。
 
地質専攻の大羽君とは麻生在職中はお互いにあまり交流はなかったが、むしろ晩年になってから交流を深めることとなった。東京周辺在住の、麻生OB六人で、ハイキングや旅行を楽しむ鹿遊会なるグループを作り、行く先々で彼の地質学講義を聞き、自然への理解を深めることが出来た。若い頃から地質調査で山野を跋渉して鍛えた健脚で、山歩きの時は常に先達をつとめている。
 
秋葉君は製工所の経理、本社計算課、東京支店などにいたが、労務畑の私とは余り交渉が無かった。ただ彼については忘れ得ないことが一つある。私が労務課にいた頃、彼は同じ本社の計算課に籍を置いていた。
 
見ていると彼は毎朝のように遅れて出勤してくる。普通の人なら遅刻した時は、上司や同僚になるべく見つからないようにこっそり自分の席につくものである。ところが彼は、毎朝計算課長の赤松さんの前に立ち「おはようございます。」と挨拶してから、やおら自分の席につく。
 
その態度が余りにも堂々としているので、日頃やかまし屋で有名な赤松課長も気勢をそがれて、叱言も言えないでいる。当時労務課の課長代理であった木庭暢平さんがそれを見て「男はああなくてはいかん」と私に言われたことであった。
 
その秋葉君は昭和二十八年に退社し他に転じたが、将来の経理部長と目されていただけに、惜しい人物を失ったものだと思った事である。その後三菱油化に勤務しているという噂を耳にしたことはあったが、全く音信のないまま二十数年の歳月が流れた。
 
あれは昭和五十何年だったろうか、私が世話人になって在京の麻生OB会を催した。その会合に秋葉君が現れ再会することができたが、それ以来同じ横浜市内に住む者同士ということもあって、頻繁に交流を重ねることとなった。
 
頻繁に交流を重ねてみると、昔私が抱いていた彼のイメージとは異なり、杯を重ねる程にジョークを交えた会話が縦横に展開し、まことに愉快な話相手であることを発見したことであった。
 
どの部屋に誰と一緒にいたか記憶はないが、久留米工専出の石津君という色男がいた。色白でスリムでスポーツ万能の彼は、いつも女の子に取り巻かれていたようだ。一見多少軽薄な感じすらあったが、それは女性にもてない私の僻みで、根は真面目だったのかもしれない。私とは部屋も班も一緒ではなかったから、声を交わすこともなかった。
 
実習終了後彼は上三緒炭坑の炭務係に配属された。それから程なく私より年下の彼が、早々と結婚したという噂を耳にしたが、別段交流のない私は何の感想もなかった。それから数ヶ月くらい経ってからだろうか、彼が殉職したという知らせに愕然とした。
 
坑内勤務ならまだしも、炭務係の彼がどうしてと思ったことであったが、聞くところでは、貯炭ポケットに縁から誤って転落した選炭婦を救出せんとしてポケットに飛び込み、粉炭に足を取られて埋没、窒息死したという。
 
上部からの救出不可能のため、ポケットの底を抜いた時、石炭と共に出てきた彼は粉炭に口を塞がれ、すでに窒息死していた。彼の腹の上に臥伏せになった姿勢で引き出された選炭婦は、呼吸する僅かな空間が彼の体で確保されていたらしく、奇跡的に命をとりとめたとか。彼の葬儀の日、選炭機は雨に濡れながら、いつものように鈍い音をたてて動いていた。
 
四十数年ぶりに、先頃上三緒駅のホームに降り立ったが、若い命を呑み込んだ貯炭ポケットも選炭機も今は跡形も無く、周辺はしゃれた造りの家が建ち並ぶ、滅法明るい住宅地となっていた。
 
報国寮の思い出を手繰ると、まだまだ語り尽くせぬ顔が数多く思い出される。血気盛んな海軍将校の渡辺誠、丸田鉄夫、福江節雄の諸君、短身の立石潜水艦、呑むほどに青白くなっていた石井マッカリ大将等々、半世紀のタイムトンネルの彼方に、青春の群像が鮮やかに浮かんでくる。
 
(平成二年)
 

ramtha / 2011年3月30日