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第三十三話「秘書落第」

昭和二十二年の七月のことだったと思う。当時私は麻生本社厚生課に勤務していたが、ある日内田課長から社長のお供をして一ヶ月ばかり東京へ出張するようにと申し渡された。
 
その頃、太賀吉社長は飯塚の本社と東京支社(当時はまだ支店と称していた)と年に数回往復して経営の指揮を執られていたが、まだ専任の秘書は置かず、東京へ出かけられる時は、若手社員にお供を命じられていた。
 
幹部候補社員の教育指導を考えられてのことだったと思うが、今から考えてみると、同時に社員の人物鑑定もされていたのではないかと思われる。
 
その当時社長上京のお供を専らされていたのは、労務課の木庭暢平さんであった。木庭さんは私にとっては福岡高校の先輩に当たり、終戦直後の上三緒炭坑報国寮でも短期間ではあったがご一緒したこともあった。
 
その端麗な容姿、颯爽たる挙措は、明晰な頭脳から繰り出される爽やかな弁舌とともに、私達の畏敬の的であった。社長が幹部候補生としてその将来に期待をかけ、上京時の秘書としてその都度起用されていたのは尤もなことであった。
 
ところがその時は木庭さんが結婚直後のことで、新婚早々の夫婦を一ヶ月あまりも引き離してはとの社長の配慮から、ピンチヒッターとして私に白羽の矢が立ったものらしい。
 
上京のお供を命じられた私は、戦後一度も上京したことがなかったので、久方ぶりに上京出来る幸運に内心雀躍する思いであったが、他方、社長のお供というのはまことに気の重いことでもある。まして軍隊時代に積兵団の参謀長副官として声名を馳せた木庭さんの代役など勤まる筈がない。
 
かねて小心でドジな私は、気むずかしい太賀吉社長の顔を思い浮かべるだけでも身も縮む思いがする。しかし、反面ズボラで投げやりなところから、まあ何とかなるだろうと言う横着な思いもないではなかった。
 
そうした不安と期待の交錯した思いでいると、木庭さんから別室に呼び出され、社長のお供をするについてのノウハウの伝授があった。頼りない後輩が、とんでもない失敗をやらかして、社長の逆鱗に触れるようなことがあってはと危虞されてのことであったろう、まことに事細かな注意指導を頂いたことであった。
 
終戦後間もない頃であったから、社長の上京といっても今のような空の便があるわけでもなく、新幹線も無い時代だ。博多から東京まで二十時間ばかりも要する特急列車を利用するほかない。今では旅行客が空路や新幹線へ移り、利用者も少なくなった寝台列車だが、その寝台列車すらまだ復活してなく、米軍の占領統治下にあったその頃は、一等車も日本人には利用を許されていなかった。だから太賀吉社長と言えども、二等車の四人ボックスにかけたまま、夜通し辛抱しなければならなかった。
 
座席の間に手荷物のトランクを置き、その上に脚を伸ばして社長に少しでも楽にして頂くこと。夕方博多駅を出る列車は岡山の手前で夜が明ける。岡山駅での停車時間に、ホームの中央にある洗面所でおしぼりを濡らして、社長に差し上げることなど。木庭さんの指導は微細にわたり懇切を尽くしたもので、メモをしながら私はその細やかな心配りに、ただただ驚嘆するばかりであった。
 
後輩を思うその親切は身に沁みて有り難いことであったが、聞けば聞くほどとても自分には勤まりそうもないと言う思いがつのって来る。また、この期に及んで気がついたことだが、社長と同席して夜を過ごすとなると、日頃から盛大な私の鼾はどうなる。座ったまま睡眠するとなれば、見苦しい涎が出るに違いない。次から次へと悩みは果てしないが、今更辞退するわけにはいかない。
 
マスクを買って涎には備えたが、鼾はどうしようもない。受験勉強で徹夜したこともあるではないか。一晩くらい眠らなくてもなんとかなるだろう。
 
いよいよ上京の日が来た。お供をする段になって和子夫人もご一緒されることを初めて知った。私はいやが上にも緊張せざるを得ない。しかし、車内では社長も奥様も、ことさら優しく声をかけられ、緊張に戦(おのの)く私の心を解きほぐして頂いたことであった。
 
列車の東進とともに夜が訪れ、やがて社長ご夫妻におやすみ頂く時間となった。木庭さんに教えて頂いた要領で、座席間にトランクを二つ横たえ、脚を伸ばしておやすみ頂くこととしたが、私は徹夜の覚悟である。文庫本を開いて読み耽りながら、次の仕事は岡山でおしぼりを濡らすことだと心の中でおさらいをしていた。
 
広島駅を通過し、あと暫くで岡山だと思ったところまでの記憶はあるが、いつの間にか寝入ってしまっていた。列車の振動で目を覚ましたら、列車は岡山はおろか、すでに姫路駅のホームを離れつつあった。自らの不覚に慌てふためく私の姿に、社長も奥様も苦笑されていらっしゃったが、どうしようもない奴だと思われたであろう、お叱言はなかった。
 
当時の列車に食堂車は無かったが、車内販売の売り子は何度もやってきた。通路を挟んだ向こうの席には、闇商売でで儲けだしたかと思わせる成金風の男がいて、車内販売が回って来る度に買い食いしている。
 
また冷房などない当時の夏の車内だから暑くてたまらない。アイスクリームを食べている向こうの男を見ていると、私も喉から手の出る思いだ。しかし社長ご夫妻は、本家から持ち込まれた魔法瓶のコーヒーとサンドウィッチを、食事の時に召し上がられる以外は何もお食べにならない。
 
剰(あまつさ)え周りの乗客が時を構わず飲食することなど、苦々しくご覧になっているように窺われる。同席している私は、いくら喉が渇いたからと言って、車内販売のアイスクリームに手を出すわけにはいかない。
 
一生懸命我慢していたが、どうにも耐えられない。とうとうトイレに立つふりをして、デッキまで出て車内販売の売り子を捕まえ、立ったまま大急ぎでアイスクリームを食べた。あまり急いで食べたため、脳の血管が急に収縮したのであろう、前頭部が痛くなった。
 
トイレに立ったにしては、些か時間がかかりすぎたきらいはあったが、口元をハンカチで拭い、それこそ何食わぬ顔で席に戻ったことであった。
 
東京に四十日ばかり滞在した期間中、社長から命ぜられた仕事は、炭労(日本炭坑労働組合)の全国大会を傍聴し、その模様を報告することだけで、その他は何もなく遊ばせて頂いた。木庭さんからは社長の交際先である政財界の知名士の電話番号など教えられ、メモもしていたことであったが、ついぞそれを利用しなければならないような指示も頂かなかった。
 
上京車内の一日で、私の無能ぶりを感知された社長が、秘書として使うことを諦められた結果であっただろう。秘書としてのテストに落第したことは、鈍感な私でも認めざるを得ない。自分自身些か情けない思いもしないではなかったが、反面二度とこんなお役は回って来ないだろうと、ホッとしてことでもあった。
 
社長は後日専任秘書を置くこととされたが、その初代秘書には当然のことながら木庭さんが就任された。
 
その後昭和三十二年の二月頃のことであったが、私が自宅で肺切除の術後療養をしていたところ、木庭さんがわざわざ見舞いに来られたことがあった。その折「俺は今度秘書を下番することになった。後任の秘書は本来ならお前に回って来るところだが、病気では仕方が無いという事になった。」と言われた。しかし、先刻秘書落第の身であってみれば、病気の有無に拘わらず、金輪際お鉢が回ってくることなどあり得ないと思っていた。
 
木庭さんの後、増田五郎、井手千二、深町純亮、田代勝次と言った福岡高校の先輩、後輩に当たる方々が次々に秘書を勤められたが、私はついに秘書を命じられることなく、その大役から免れることが出来た。
 
私に過分な期待をかけて頂いた木庭さんにはまことに申し訳ないことながら、およそ私には不向きな秘書にならずに済んだことはつくづく幸せであったと思う。
 
<追記>
 
これほど秘書に不適性な私が、後年ビジネススクールで、秘書検定試験受験講座の講師を勤めた事があったが、我ながら厚顔無恥の限り、受講生こそいい迷惑と言うものである。
しかし、試験の合否は講師の良否より、受験生の努力如何によるものらしく、その時の合格率は、同種他校を抑えトップであったのは、まことに皮肉なことであった。
 
(平成二年)
 

ramtha / 2011年3月27日