筋筋膜性疼痛症候群・トリガーポイント施術 ラムサグループ

「老境の生活に必要なもの」

「平成二十六年 八月六日」
 
 先日新聞の投書欄に老境の生活に必要なものは、友人・趣味・金・車・・と書かれてあるのを見て、改めて私自身が必要とするものはと考えてみた。
 私にとっては第一に健康である。九二歳の今日よろず動作が鈍くなるのは仕方がないが、七~八年前から杖を頼りにするようになり、最近では両手に杖を持っても、同じ敷地内にある息子の家まで行くのがやっとという有り様である。
 もともとは歩くのが好きで、三キロばかりある飯塚の本屋まで歩いて往復していたものだが、七〇代後半から腰と右膝に痛みを感じるようになった。
 
 そこで平成十四年、近くにある脊損センターでMRI検査をしてもらったが異常無しとのことで、さしあたっては、平成十六年十一月から二瀬病院のリハビリセンターに通院してみたが、あまり効果も感じられないので長続きしないまま止めてしまった。
 その後も時に腰痛を感じながらもなんとか普通の生活が出来ていたが、平成十九年、長男がインターネットで、別府に整形外科専門の温泉病院があることを見つけてくれた。そこで、久しぶりに温泉に漬かってみるかというような気分で、でかけることにした。
 
 その病院に滞在中、すぐ近くの別府国立病院で精密検査をしてもらったところ、骨や筋肉には異常はないが、右足の動脈硬化があり、人工血管に取り替える手術を勧められた。
 しかし外科手術は、これまで肺葉切除をはじめ五回も受け、その度に術後二、三日はずいぶん辛い思いをしてきた。それを想うと、もう八五歳の老い先短い身ではもう結構と辞退した。
 
 ところが健康と寿命とは別もののようで、今日まで長生きして苦しむこととなった。昨年、あまりの痛さに飯塚病院の整形外科で受診したところ、治癒するには、やはり血管の取り替えが必要とのこと。だが年齢が九〇歳というのではと、今度は医師の方が手術を躊躇う。理由は手術の際の全身麻酔が、老体に死をもたらす危惧があるとのこと。結果、骨粗鬆症の薬と鎮痛剤を投与されることで帰宅することとなった。
 
 思えば五年前手術してもらって居れば、今日の苦しみは逃れられたのかも知れないが、今となっては後の祭りである。
 どうせ逃れられない苦痛であれば、世の人々の痛みを我身一身に引き受け、衆生済度する御仏かキリストの代役を勤めているとでも考えることにしたら、少しは楽になるのではないかと不遜な思いを巡らしたりしている。
 
 家内と二人きりの夕食時、そんな冗談をしているところに電話がかかってきた。受話器を取り上げてみると、聞き覚えのない声で「明小の菊田です」という。
 八十年前、戸畑の私立明治小学校での同級生で、名古屋に住んでいる菊田鋼次郎君である。
 
 彼はクラス一番の優等生で、体も健康な模範生であった。旧制中学四年から松江高校・東大航空工学科に進み、戦後は造船会社のエンジニヤとして活躍、退職後もその腕を買われて、しばしば機械設計を依頼されるなどして、優雅な生活をしていると聞いていた。
 平成八年、有馬温泉でのクラス会でも、まだ製図をしたりプールで泳いだり理想的老後を楽しんでいると話して居た。
 四十名ばかり居た小学校の同級生も、概ね八十歳前後までに他界し、今では僅か三人となってしまったが、男性では彼と私だけになってしまい話し相手もなくなったので、先日久しぶりに近況報告の手紙を出した。
 
 今日の電話はその返信であるから別に驚くこともないのだが、まだまだ元気にしていると信じて居たので、電話の声が、あまりにも弱々しく老けているのにはびっくりした。
 彼の話によると彼自身はまだ健在のようだが、奥方が脳梗塞で倒れ六年に及ぶ看病で疲れ果てているという。
 
 毎日昼食時に食事されるため病院にゆくのが日課となっているが、奥さんは延命装置で呼吸をしている状態で、意識も定かでなく夫婦の会話も跡絶えて久しいとのこと。あまりのことに私は慰める言葉も励ます言葉もない。
 会話の最後に「気を落とさず、看病疲れをしないよう君自身の健康に留意するように・・」と言葉をかけたが、私自身そらぞらしく感じられ、申し訳ない気持ちをどうしょうもなかった。
 
 想えば、私たち夫婦にもどのような明日が待ち受けているか分からない。足腰を擦り擦りしながらも、その日その日を仲良く暮さねばと改めて思い知らされたことであった。

ramtha / 2014年12月13日