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「元旦の思い出」

今朝も雪が舞い降りている。西風がやや強く西向きの玄関の扉の桟には雪が溜まり、踏み石の上は凍っている。

飯塚ではこのくらいの寒さだが、雪国の人々は毎日雪下ろしに追われているとか。高齢化の進む僻地の聚落ではどんなにか辛いことだろう。まして被災地の仮設住宅の暖房はどうなんだろう。中には私のような五体不自由な老人もいるに違いないが、どうされているのだろう。

私はストーブに限りかじりついて窓越しに雪景色を眺めているだけだが、思えば誠に恵まれた暮らしではないか。

昨日は恒例の年賀はがきが配達されてきた。今では「お年玉付き年賀葉書」が当たり前のようになっているが、あれは戦後であった事は確かだが、いつから始まったのか覚えていない。

年賀状を送る風習は昔からあったことだろうが、庶民が年賀葉書を利用するようになったのはいつ頃のことであったか知らないが、親父の年賀葉書を投函した記憶があることからすれば、昭和初期にはすでにあったものと思われる。

私が子供であった昭和初期は、隣近所や知人宅には名刺を持って新年の挨拶回りをしたもので、それぞれの家の玄関には名刺受けが置かれてあった。

なお会社の社長さんなどお偉いさんのお屋敷では、玄関の式台に年始来訪者の氏名を記帳する筆記具が備えられていたようだ。

そういえば昭和初期の小学校では、元日は登校して年始の式が行われていた。
全校生徒が講堂に集合し、校長先生の教育勅語奉読、年頭の訓示を暖房もないところに起立低頭したままの姿で拝聴したものだが、あちこちから鼻汁をすすり上げる音が聞こえていたことが思い出される。

次は紋付和服の花田先生のピアノ伴奏で「年の初めのためしとて 終わりなき世のめでたさを 松竹立てて門ごとに 祝う今日こそたのしけれ」と言う年始の歌を合唱した。

終わると教室に戻り、担任の藤井先生の訓辞があり、各自年頭の努力目標を述べさせられたりしたことであった。旧制中学以降は元日に登校した記憶は無いから、たぶん何も行事はしなかったことと思われる。

昭和十九年の元旦は、福岡の西部四六部隊の内務班で迎えたはずだ。確か古年兵は特別外出が許され街へ出かけて行ったようだが、私たち初年兵は平日通り食器洗いや便所掃除をさせられていた。

雑煮など食べさせてもらったのかも覚えていないが、仮にそのような特別料理があったとしても、餅などは古年兵の食器に注がれ、われわれは初年兵は汁だけすすっていたに違いない。

昭和二十年は鹿児島県大隅半島の山の中で元旦を迎えたが、どのような一日であったが全く記憶にない。

バラックのような粗末な兵舎で寝起きしていたが、普段は米軍爆撃機が上空飛行するのが木の間隠れに見られたものだが、あの日は見なかったような気がする。

一兵卒の身では戦況など知る由も無かったが、いずれ志布志湾から上陸してくる米軍戦車隊と戦わねばならず、その時が我が人生の終りとなることだけは薄々感じていた。しかし、この年八月十五日、日本はポツダム宣言を受諾降伏し、命拾いをした。

敗戦後最初の昭和二十一年の正月は、麻生上三緒炭鉱の独身寮で迎えた。
炭鉱では荒廃した祖国復興のため、大晦日と元日だけが休みで、正月二日はもう平常通りの作業が行われていた。

たった二日の休暇ではあったが、自宅が近くの寮生はいそいそと帰省していった。しかし当時の国鉄は戦災による車両不足のため、遠距離の乗車切符はなかなか手に入らず、大分県臼杵市に自宅のある私や、香川県高松市の高井さんなど数人は寮で越年することとなった。

当時の寮長土屋真澄さんは、奥さんが待つ小倉まで帰られるにも拘わらず、私たちと行動を共にしてくれたが、あの優しい人柄は今に忘れ得ない。

物資不足の当時、元日に寮で何を食べさせられたか、これまた全く記憶がない。
確か午前九時ごろ本事務所前の広場で、福永坑長の挨拶があり、その後私達寮生は指導員の福井さんに連れられ麻生社長の本邸に年賀の挨拶に参上し、ご馳走を頂いた。物のない時代ではあったが、さすがに本家だと思ったことである。

さらに、典太専務のお屋敷(現大浦荘)にも伺い、最後は福井さんの旌忠公園社宅で夕食を頂いた。

世間知らずの私はただみんなと一緒に行動しただけであったが、今にして思えば、終日私たちを引率された福井さんのご苦労には感謝の他は無い。

あれから七十年、太賀吉社長も、典太専務も、福永さん、福井さん、土屋さん、高井さん、みんな浄土に行かれてしまった。私一人窓越しに降り止まぬ雪を眺めている。

(平成二十七年 一月二日)

ramtha / 2015年6月12日