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「思いやりの心」

イスラム風刺画に関するフランスでのテロ容疑者は仏憲兵隊に射殺され一件落着となったが、オランド大統領は特殊部隊突入後にテレビ演説し「脅威は去っておらず、常に警戒が必要だ。団結して欲しい。それが我々の武器だ」と語った。また「事件は狂信者による犯行で、イスラム教とは何の関係もない」と述べ、事件を宗教対立に結びつけないように呼びかけたと報道されている。

なおメルケル独首相は「事件は報道や人間の尊厳への挑戦だ。われわれはフランス国民と共にあり、全身全霊で支持する」と声明。

キャメロン英首相は「われわれはフランス国民と共に立ち上がる。報道や表現の自由を決して諦めてはならない」などと語ったことも報道されている。

この問題について今日の毎日新聞には、欧州総局長小倉孝保氏の「非寛容に流されるな」という論説を掲載しているその一部を転載する。

「(前略)欧州にあって「言論の自由」は、疑問の余地なく守られる権利である。中世の欧州では王や教会が絶対的権威を持っていた。欧州の近代史は、市民がその権威を奪ったところから始まっている。欧州市民社会の出発点は、絶対的権威を認めないところにある。今回、風刺画の批判がテロの背景として指摘されているが、権威を風刺できる社会が欧州を成り立たさせているのだ。

一方イスラム社会において、唯一神(アラー)や預言者ムハンマドの権威は侵すことのできないものである。そうした絶対的権威にすべてを委ねることで個人の心の安寧を確保し、社会の調和を維持している。そのためムハンマドの風刺を認める事はイスラム社会への挑戦と受け止められる。

欧州は今、従来の欧州とは異なる価値を持つ社会を内在させている。
欧州は様々な人や価値観、情報を取り込むことで得た豊かな市民社会を維持してきた。イスラム過激主義の台頭という難題を前に、手っ取り早いのは社会の寛容を制限して、移民を規制しイスラム教徒の監視を強めることだろう。しかしそれは欧州文化の力強さや魅力をそぐことだ。(中略)

欧州は今こそ反移民や非寛容主義に容易に流されることなく、寛容な社会を維持するために風に立ち向かってほしい。それが欧州文化を強靭にすると私は思う。」

いささか長い引用となったが筆者の所見の主要部分であるので敢えて転載した。
この所見について私は概ね賛同であるが、筆者がその立場上触れなかったと思われる点について私見を述べることとする。

① 筆者は風刺画の批判があることが指摘しながら、そのこと自体の是非にはその所見を述べていない。被害者の遺族に対する配慮からか、表現の自由を尊重する欧州文化に遠慮してのことかはわからないものの、筆者自身が事件の引き金となった風刺画に対して批判的であるものと私には思われる。なぜなら彼は日本人であるから風刺画ごときで、ことさらに事を荒だてることに賛同しがたいと考えられるからである。

② 筆者は欧州文化とイスラムとの間には超えがたい価値観の相違があり、その対立は解消し難いものと考えているようである。その結果、欧州に反移民や非寛容主義に流されることのないようにと希望を述べているに過ぎない。

③ 欧州とイスラムとに限らず、今後グローバル化が進んで行けば、あらゆるところで文化の対立によるトラブルが多発することと思われる。それは法律や裁判で処理できるものではなく、紛争や戦争に発展する可能性を秘めている。

このまま放置すれば、人類は弱肉強食の阿修羅の世界に陥落することになる。その定めから逃れる術は無いのだろうか。

極めて難しいテーマであり、永久に回答を得る事はないのかも知れない。しかし甚だ迂遠な道ではあるが、世界中の人々が、自分の行為の及ぼす影響を考え、他人の迷惑にならぬように心がけることに尽きるものと思われる。

消費者のニーズに合わせて最も安全で便利な製品を作るなど、相手の立場に身を置いて考える事は、自己主張の不得手な我々日本人の得意とするところではないか。思いやりの心こそ人類を破滅から救う唯一の道であり、これを気長に世界中で広める事は日本の使命ではあるまいかと私は考えている。

(平成二十七年一月十二日)

ramtha / 2015年6月15日