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「不可解なイスラム」

マスコミの報道に頼るのみの知識からではあるが、私は一昨年頃から心密かに、十九世紀はイギリス、二十世紀はアメリカが君臨する世界であったが、二十一世紀は中国とイスラムが躍動することになるのではと思っていた。

ところが、中国の躍進もイスラムの情勢も私の予想を上回る勢いで進展しているようである。
中国は東シナ海を挟んだ隣国であり、二千年来交流があり、日本文化の基礎ともなっている漢字を作り使用する国で、昭和初期の旧制中学では漢文の授業で論語など儒教に接し、東洋史では十八史略など中国の歴史の概略を学んだので、その民族の風習や精神構造も朧気ながら推測することができる。

しかしイスラムは中東からアフリカにかけて存在し、地理的にも遠く、その歴史について学んだことがなく、その思想や行動の原理など、理解しがたいものがあり、何ともわからないと言うのが私の率直な思いである。

先ごろ池上彰氏の「イスラムの世界」を読んで、イスラム教が日常の生活まで規律する祭政一致の世界であるらしい事は推察できたが、それ以上の事は未だに分からない。

そこで「血で血を洗うイスラム国殺戮の論理」(小瀧透著)を読んでみた。それでも理解できたとは言えない有様である。もともと愚昧な知能が加齢と共に老化したので致し方ない。そこで勉強の手始めとして目に留まった幾つかの問題を書き留めてみる。

①イスラム教では神の唯一性を最も重視し、偶像崇拝を否定する。イスラム教の創始者ムハンマドはメッカに入城した時、カーバ神殿に祀られていた神像をことごとく破壊させた。

②イスラム教の教えは人の行うすべての行為を規定する律法で、日常生活はこの律法に従わなければならない。
その律法は創始者ムハンマドの定めたものと、時代の推移で新しく発生した事象については、律法の解釈により合否が下される。

③イスラム法ではイスラム教徒と異教徒を差別する事を合法としている。

④コーランに書かれている事項は、そのまま法的規定となる。

⑤コーランに書かれていない事項は、ムハンマドの言動で決められる。これはスンナ(ムハンマドの慣行)と呼ばれ、コーランに次ぐ法源とされている。
このスンナを著したのがハディース(ムハンマドの言行録)でコーランに次ぐ第二法源となっている。

⑥コーランもスンナもムハンマドが生きた六~七世紀のアラビア半島という限定がある。そこに書かれていない問題が続出してきた。そこで出てきたのがイジュマーとキャースである。
イジュマーとはある問題について共同体の合意であるが、実質的にはウラマー(イスラム法学者)の合意によって成立した。これは神や預言者の直接的意思ではないが、それを受け継いだものとされ、法源の一つとなった。

⑦キャースはコーランとスンナからその精神を類推する方法を指しているという。

⑧この神の法(シャリーア)を破ったときは恐るべき神罰が下される。俗に言う「眼には眼を、歯には歯を」と呼ばれる復讐法(同害報復)がそれに当たる。それが現在でも生きている。
金曜日の集団礼拝後に行われる公開処刑は、圧倒的な群衆が見つめる中で行われる。処刑が行われる広場はもとより、家々の屋上からも鈴なりの人々が身を乗り出して見つめている。私(著者)が見たのは、強盗殺人犯と言うことであったが、判決を受けた罪人は広場中央に引き出され、ひとしきり罪状を読みあげられた後二人がかりで組み伏せられた。

半月刀を抜いた処刑人は、大仰に振りかぶりなどしなかった。突き出された首に刃をあて、次の瞬間頸動脈を切り裂いた。罪人はゆっくり地上に伏し、それと同時に拍手が起こった。
「神に称えあれ!ここに神の法は守られた!」と。

以上私の目に留まった事項の一部を掲げたが、公開処刑の記述など、二十一世紀の今日そんなことが行われているとは信じがたい風景で、ただただ驚くばかりである。

いずれにしても、民主主義の法治国家で、法律違反行為はしないにしても、道徳的にはいい加減な生活をしている大半の日本人には、ここに紹介されているイスラム社会は、なんとも異様な世界である事は間違い無さそうである。

(平成二十七年四月四日)

ramtha / 2015年7月13日