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「日本語が亡びるとき」

先頃、新聞の広告欄で「日本語が滅びるとき~英語の世紀の中で~」(水村美苗著)という日本人には衝撃的題名の文庫本を見つけた。

日本語の歴史的変遷については、たまに考えてみることもあったが、中学や高校で学習した英語もドイツ語も、社会人となっては仕事の上で必要とする事はなく、生来不勉強な私は、すっかり忘れてしまった。そんなことで、世界の言語について、関心もなければ考えてみることなど全く思いもつかなかった。

しかし、私たちが日常会話で使用し、読書している日本語がこの世から消えて行くなど、考えられないことであり、あってはならないことではないか。
そこで早速購入して一読した。

本のカバーに記載されたところによると著者は十二歳で渡米、イエール大学卒、仏文専攻。同大学院修了後帰国。のちプリンストン大学などで日本近代文学を教える女性学者のようである。年齢は明らかではないが、顔写真と経歴から五十歳代では無いかと思われる。

いずれにしても私の考えてもみなかったテーマで教えられることが少なくなかった。ことに言葉を中心にした広範な近代史を見る思いを深くした。老化した私の頭脳では、著者の真意を誤解していることもあるかと危惧するところも無きにしも非ずだが、目に留まったこと、教えられたことについて書き留めておく

1)言葉には力の序列がある。
一番下には、その言葉を使う人の数が極めて限られた、小さな部族の中でしか流通しない言葉(地域語)がある。その上には民族の中で通じる言葉(民族語)、さらにその上には国家の中で流通する言葉(国語)がある。そして一番上に広い地域にまたがった民族や国家の間で流通する言葉(普遍語)がある。

2)今、人々の間で交流が盛んになったことによって、言葉に有史以来の異変が二つ起こっていると言われている。
一つ目の異変は、下の方の名も知れぬ言葉が大変な勢いで絶滅しつつあるということである。いま地球に七千くらいの言葉があると言われているが、その内の八割以上が今世紀末までには絶滅するであろうと予測されている。都市の人口集中や伝達手段の発達や国家の強制によって、言葉はかつてない勢いで消えつつある。

二つ目の異変は、今までに存在しなかった、すべての言葉のさらに上にある、世界全域で流通する言葉(普遍語)が生まれたということである。

3)それが今「普遍語」となりつつある英語である。
英語という言葉は、他の言葉を「母語」とする人間にとって、決して学びやすい言葉では無い。もとはゲルマン系の言葉にフランス語が混ざり、ごちゃごちゃしている上に、文法も単純ではないし、単語の数が実に多い。慣用句も多く、おまけにスペリングと発音との関係がしばしば不規則である。さらに発音そのものが、それを「母語」としない多くの人にとって非常に難しい。

4)ところが言葉というものは、ここまで広く流通すると、そのような事とは無関係に、雪だるま式にさらに広く流通して行くものなのである。通じるがゆえに、多くの人が使い、多くの人が使うゆえに、より通じるようになるからである。
しかも、今やインターネットという技術も加わった。「普遍語」は、国境という人為的な壁も、ヒマラヤ山脈やサハラ砂漠や太平洋という自然の壁も、何もかも越えて飛び交うことが出来るのである。

5)いったい何時この運命が決まってしまったのか。
一四九二年にコロンブスがアメリカ大陸を発見した時も、一六二〇年にメイフラワー号に乗ったイギリスの清教徒がアメリカ大陸にたどり着いた時も決まっていなかった。一七七六年にイギリスから独立しアメリカ合衆国が出来た時ですら、こうなる運命は決まっていなかった。
こうなる運命はフランス人が時代を先取りしていたせいかも知れない。一七八九年フランス人は、やがてヨーロッパ諸国を近代へ導くことになるフランス革命を起こした。王制を敷いていた近隣のヨーロッパ諸国は、怯え、フランスにこぞって戦争を仕掛けた。その結果ナポレオンが台頭し、続々とナポレオンと戦争することとなった。

そして一八〇三年、そのナポレオンがイギリス軍を牽制するため、北アメリカの中心部を占めていたフランスの領土を、一エーカーわずか三セントでアメリカ合衆国に売ってしまった。いわゆるルイジアナ・パーチェス(ルイジアナ購入)によって、それまで大西洋側に小さく固まっていた合衆国は最強のフランス軍と戦うことなく一挙二倍の大きさになり、温暖で肥沃な領地を西へ西へと太平洋岸まで増やして行くことができた。

やがて、合衆国はいつの間にか世界で一番の金持ち国になり、一九三〇年(昭和五年)頃にはドルがポンドに代わって「世界通貨」となった。それから半世紀後、ふと気がつけばいつの間にか英語という言葉が「普遍語」として流通するようになっていた。

6)日本の近代文学の存在が世界に知られたのは、日本の真珠湾攻撃を契機に、アメリカ軍が敵国を知るため、日本語のできる人材を短期間で養成する必要に迫られたのが一番大きな要因である。
アメリカの情報局に雇われた中でも、極めて頭脳優秀な人達が選ばれて、徹底的に日本語を学ばされ、彼らが後に日本文学の研究者、そして翻訳者となった。エドワード・サイデンステッカー、ドナルド・キーン、アイヴァン・モリスは海軍で、ハワード・ヒペットは陸軍で。ほぼ同世代で、戦前の日本で育ったスコットランド人のエドウィン・マックレランもワシントンの情報局で働いたあと翻訳者となった。

一九六八年(昭和四三年)に川端康成がノーベル文学賞を受賞したのも、英訳があったおかげである。非西欧語の受賞者は、その後二十年間無かったことを考えれば、いかに英訳が出版されたことが日本文学にとって重要であったかが分かる。

いま世界で一番権威がある百科事典「ブリタニカ」の「日本文学」という項目は、次のような文章で始まる。

『その質と量とにおいて、日本文学は世界の最も主要な文学の一つである。その発展の仕方こそ大いに違ったが、歴史の長さ、豊かさ、量の多さにおいては、英文学に匹敵する。現存する作品は、七世紀から現在まで至る文学の伝統によって成り立ち、この間、文学作品が書かれなかった「暗黒の時代」は一度もない。』

(注)西暦六〇四年、聖徳太子、憲法十七条を作る。

7)「現地語」とは「普遍語」が存在している社会において、人々が巷で使う言葉であり、多くの場合それらの人々の「母語」である。
「国語」とは「国民国家」の国民が、自分たちの言葉だと思っている言葉である。

8)日本語は、日本人の血をしている事、日本の国籍を持っていること、日本語を母語とすること-本来はそれぞれ独立したこの三つの位相が、三位一体のように分かちがたく日本人の心に刻まれ、日本語で言う「国語」は、いつしか、即、「日本語」を指すようになり、日本中心主義とも言うべき、大日本帝国の国体思想の礎となった。

9)「国語」とは、もとは「現地語」でしかなかったものが「普遍語」から翻訳するという行為を通じ、「普遍語」と同じレベルで機能するようになったものである。

10) 翻訳とはそれによって上位のレベルにある「普遍語」に蓄積された叡智、さらには上位のレベルにある「普遍語」によってのみ可能になった思考の仕方を、下位レベルにある「現地語」の「書き言葉」へと移す行為だったのである。

11)十四世紀初頭、当時、西ヨーロッパで最も文明が進んでいた今のイタリア語圏では、フレンチェ方言のイタリア語を使ってダンテが「神曲」を書いた。ダンテが使った「現地語」は、その後イタリア語の規範となり、ダンテは「イタリア語の父」と呼ばれるようになった。
ダンテはまたラテン語でも読み書きしていた。

国語の父と呼ばれる人の特徴は、「普遍語」の流暢な操り手であったことであり、優れた二重言語者であった。また彼らは広い意味での優れた翻訳者であった。

12)ヨーロッパの知識人の間では、最初はフランス語がラテン語に代わって「普遍語」として機能していたが、やがて主だった三つの「国語」がおのずから「普遍語」として機能するようになる。フランス語、英語、ドイツ語である。「三大国語」が「国語」でありながら「普遍語」であると言う二重性を持つ言葉として機能するようになる。

13)ヨーロッパが「国語」の時代に入ったという事は、人が「自分たちの言葉」で書くようになったということである。

14)ある言葉を読むことができても、その言葉で書くのは容易なことでは無い。ヨーロッパの知識人はしばしば「三大国語」全てを読んだが、たいがいは「自分たちの言葉」で書くようになっていた。そうすることによって「書き言葉」としての「自分たちの言葉」を高め、ひいては「あらゆる民は国民であり、それ自身の国民的性格とそれ自身の言語を持つ」という「国語イデオロギー」は「自分たちの言葉」で書くべきだという思いを広めていった。

15)イギリス、そしてアメリカが突出した国力を持つようになると、世界勢力の均衡が目に見えて崩れ始める。
言葉というものには自動運動で永らえる力があり、フランス語もドイツ語もその後しばらくは主要な「国語」として流通し続けるが、政治的、軍事的、経済的に英語圏の勢力が一人勝ちしたことが明らかになるにつれ、英語という「国語」が一人勝ちしたのも明らかになって行く。そしてそれが明らかになるにつれて「学問」の本質、すなわち「学問」とは本来、 「普遍語」で読み「普遍語」で書くものだという「学問]の本質が否定しがたく露呈してきた。その事実が、英語を「国語」としないヨーロッパ人にとって痛みを伴わなかった筈は無い。その実例としてカレツキというポーランド人の経済学者の悲劇がある。

一九三三年、カレツキが一つの論文を発表した。後に古典となるケインズの「一般理論」にある原理を先に発見した重要な論文である。だが、気の毒なことにカレツキはその論文を祖国のポーランド語で著した。当然のことにその論文は人の目にとまらなかった。

二年後カレツキは、同じ論文を「三大国語」の内の一つに訳して著すが、またまた気の毒なことに、彼が得意としたのはフランス語であった。翌年、一九三六年ケインズの「一般理論」が英語で出版され、経済学の流れを大きく変えることになる。

それを見たカレツキは、今で言う自分の「知的所有権」を主張し、「一般理論」に先駆けること三年、自分はすでに同じ原理を発見していたという論文を発表する。だがカレツキはその論文もまた性懲りもなくポーランド語で著した。当然のこととして、その論文も誰の目にもとまらなかった。

16)日本は、非西洋にありながら、西洋で「国民文学」が盛んだった時代に大して遅れずして「国民文学」が盛んになったという、極めて稀な国であった。

なぜかくも早く日本に「国民文学」が存在し得たのか。それは明治維新以降日本語が早々と、名実ともに「国語」をして成立したことであり、それは十九世紀半ば西洋列強の力が極東まで及んだ時、まずは二つの条件を日本の言葉が満たしていたからである。
一つは日本の「書き言葉」が漢文圏の中の「現地語」でしかなかったにも拘わらず、日本人の文字生活の中で、高い位置を占め成熟していたこと。

もう一つは、明治維新以前の日本に「印刷資本主義」が既に存在し、その成熟していた日本の「書き言葉」が成熟していたということである。

17)十五世紀に西洋の大航海時代が始まるまで、地球の多くの部分は無文字文化であった。それが朝鮮半島との近さが幸いして、日本列島は四世紀という、太平洋に浮かぶ他の島々と比べれば僥倖としか言いようもない時期に漢文が伝来し、無文字文化から文字文化に転じたのである。

しかも漢文は漢字という表意文字で書かれている。声を出して読むより、目で読むことに重きを置いて発展してきた文字である。

漢文の「書き言葉」は随や唐や宋に生きていた普通の人が、耳で聞いて理解できる言葉ではなかった。そのうえ中国語の「話し言葉」自体、広東語、上海語、北京語と地方ごとに別の言葉であるように異なっている。

漢字が表意文字であったが故に、日本人は「自分たちの言葉」の音を書き表すための文字そのものを「普遍語」を翻訳するという行為を通じて、創らねばならなかった。

18)渡来人から漢文を学んだ日本人は、当初、漢文をそのままの語順で読んでいたらしい。それが奈良時代の半ばから、漢文をあたかも「自分たちの言葉」のように読むようになった。つまり漢文の語順を逆にして、日本の言葉のように読み下すこととした。いわゆる漢文訓読。一番簡便な翻訳の仕方である。

そのためまずは、漢文の脇に返り点をつける。さらに日本語に翻訳するのを容易にするため膠着語である日本語に必要な「て・に・を・は・が・の・と」などの助詞や、「である、たる、なる」などの語尾を、漢文の脇に小さく書き添える事とした。

ところが書き添えるといっても、そもそも日本語の音を表す文字を持っていない。そこで漢字の意味を捨て、漢字を日本語の音を表す表音文字として使うこととした。いわゆる「真仮名(まがな)」で、「万葉集」に使われたことから、いつしか「万葉仮名」と言うようになった。

平安時代の人が漢文の翻訳法をさらに洗練されたものにして、助詞や語尾を漢文の脇に小さく添えるだけでなく、漢文の単語を「やまと言葉」で翻訳したものを、その万葉仮名でフリガナのように漢文の脇に小さく書き添えるようにもなる。

この万葉仮名が、次第に省略されるうちに、カタカナとひらがなに別れて行き、やがて今も日本語に使われている二種類の表音文字体系を生むことになり、最後には返り点を必要としない「漢字カタカナ混じり文」という、今の日本語の基礎となる「書き言葉」が生じた。

19)ひらがなは、漢文の翻訳文である漢文訓読からいち早く離れ、独立した文字体系として「やまと言葉」で読む和歌を中心に成立し、「現地語」を象徴する文字となった。ゆえに漢文を読み書きすることを禁じられていた女性が使う文字となった。

ひらがなが「女手」と呼ばれ、「やまと言葉」すなわち「現地語」の「書き言葉」を象徴するようになった所以である。

20)「解体新書」は、日本で初めて西洋語を訳した書物として知られているが、日本語に訳されたのではなく漢文に訳されたのである。公文書はもちろん漢文で書かれ続けており、公文書が「漢字カタカナ混じり文」という「現地語」で発布されたのは、明治改元半年前の「五箇条の御誓文」が最初である。

21)日本語が「普遍語」の漢文に対しての「現地語」でしかなく、その日本語の「書き言葉」は漢文という「普遍語」を翻訳することで生まれたが、その後も「現地語」にとどまっていたにも拘わらず、どうして読書人の男も読み書きする成熟した言葉になって行ったのだろう。

その最も大きな原因は、日本が中国大陸から海を隔てた列島であったことに尽きる。日本が漢文圏に入り文字文化に転じたのが、大陸からの地理的近さゆえだとしたら、日本語が成熟することができたのは、その反対に地理的遠さゆえである。

イギリスとフランスとを分けているドーバー海峡は三四キロしかない。ところが九州から朝鮮半島の釜山まではドーバー海峡の五~六倍 。中国大陸の上海まではなんと二五倍ある。しかも荒波である。中国からの政治的、文化的自由を可能にし、日本で固有の文字文化が花開くのを可能にした。

22)日本の漢文圏からの距離を象徴するのが、日本が科挙制度という漢文圏全体を覆う強力な牽引力から逃れられた史実である。

科挙制度とは中国全土から優秀な人材を集め、国を治める官吏を選抜する試験制度である。世界に先駆けた公平な 試験制度として名高い。だがどんな優れた制度でもあまり長く続くと良いことばかりではない。六世紀から始まった科挙制度は、なんと十四世紀にわたって中国の政治と文化を支配したが、試験の内容が時代と共に変化することないまま近代に入り、西洋に攻め込まれた時、実質的には何の役にも立たないことがわかり一九〇五年(明治三八年)に廃止された。そして中国文明の停滞の象徴ともなった。

日本は科挙制度から自由であったがゆえに、日本の二重言語者の男たちは「普遍語」で読み書きしながらも、自然に「現地語」でも読み書きするようになった。そのおかげで「現地語」の日本語は「普遍語」の高みに近づく発展を遂げた。

23)ヨーロッパでは、教会の権威の下で、ラテン語という「普遍語」の「図書館」に、二重言語者の読書人が一千年にわたって吸い込まれていた。まさに科挙制度の下で皆が漢文という「普遍語」の「図書館」に吸い込まれていたのと同じである。

ヨーロッパ語の様々な「現地語」で文字と呼るようなものが書かれるようになったのは十二世紀。誰でも知る名前が出てくるのはルネッサンス以後である。

ダンテの「神曲」は十四世紀初頭。シェイクスピアは十六~七世紀である。しかも散文では「ドン・キホーテ」という小説が書かれたのは十七世紀に入ってからのことである。

これに対して「現地語」でしかなかった言葉で書かれた日本の文学は、優れて早くに成熟していたのである。
(注)九九六年頃 清少納言「枕草子」を書き始める
一〇一〇年 紫式部「源氏物語」を書き終わる

24)日本では、もう一つ歴史的条件が加わる。他でもない、江戸時代の資本主義の発達である。「現地語」でしかなかった日本の言葉が明治維新の後、かくも早く「国語」として成立したのは、ベネディクト・アンダーソンが言う「印刷資本主義」が江戸時代にすでに発達していたおかげである。

25)日本には印刷技術(主に木版)があっただけでは無い。江戸時代三百年にわたる平和のもとで、江戸幕府(中央集権)と藩(地方分権)、あるいは藩同士の交易によって、非西欧の中では例外的に資本主義が発達していたのである。

文字が読めなければ市場に参加することをかなわず、資本主義の発達は必ず識字率の上昇を伴う。江戸時代の末には日本は、上は藩校から下は寺子屋まで、学校だらけといってもいいほど広く教育が及び、世界でも稀な識字率の高さを誇るに至っていた。

26)日本語が早々と「国語」になり得たもう一つの欠くことのできない歴史的条件があった。それは、極東の中でも一番東に位置していた日本が、東へ東へと進んで行った西洋列強の植民地にならずに済んだことである。

日本が植民地にならずに済んだのは「維新の志士」の働きによる。彼らは隣の清国が、一八四〇年(天保十一年)の阿片戦争によって、その悲惨な運命に陥ったのを見た。「維新の志士」たちは、日本を自ら開国することによって清国の運命を避けようとした。

だが彼らがお国のために力を尽くしても歴史の偶然が味方してくれなかったら、西洋列強の植民地とされる可能性は大いにあった。

一八五三年(嘉永六年)、ペリーが艦隊を率いてインド洋経由で浦賀に入港し、開港を求めた後のことである。なんと西洋列強は次々と内輪の戦争に突入して行った。

イギリス、フランス、トルコがロシアを相手に戦ったクリミア戦争が一八五三年から一八五六年(安政三年)。アメリカの南北戦争が一八六一年(文久元年)から一八六五年(慶応元年)。プロイセンとフランスが戦った普仏戦争が一八七〇年(明治三年)から一八七一年。これらの戦争は西洋列強を疲弊させ、その間に日本は急速に近代的軍隊を備えた近代国家へ転身することを得た。

27)西洋文明を頂点だとする社会進化論は、人類の文字は象形文字、表意文字、表音文字と徐々に進化してきたとされていた。

漢字は表意文字の代表であるが、一八六〇年、清国の阿片戦争の敗北は、漢文圏の中心にある漢字の凋落を招いた。一八六六年(慶応二年)、前島密が「漢字御廃止の儀」を十五代将軍徳川慶喜へ上申したのも漢字という表意文字を使用し続けるのは国の独立を危うくするという危機感からであった。

また留学帰りの上田万年が表音主義に基づき、漢字を排除した日本語を創るべきだと唱え、文部省が一九〇二年(明治三五年)国語調査委員会を発足した。その後いろいろな人から漢字排除やローマ字表記などの日本語の提案があったが、実現しなかった。

漢字排除論が実現しなかったのは、西洋語という「普遍語」に蓄積された知識や技術や叡智をいち早く日本の言葉に置き換えて移すことが目前の急務であったからである。
西洋語を翻訳するのに漢字という表意文字ほど便利なものはなかった。漢字は概念を表す抽象性、さらには無限の造語力を持つ。表音文字主義者を集め、いかに日本語から漢字を排除できるかを模索していた文部省でさえ、例えば「義務教育とは何か」を理解するためには、漢字を使っての翻訳に頼らざるを得なかったのである。

28)日本の小説は、西洋の小説と違い、小説内で自己完結した小宇宙を構築するのには長けておらず、いわゆる西洋の小説の長さをした作品で傑作と呼べるものは数は多くない。だが短編はもとより、この小説のあの部分、あの随筆、さらにはあの自伝と、当時の日本の「現実」が匂い立つと同時に日本語を通してのみ見える「真実」が散りばめられた文章が、きら星の如く溢れている。それらの文章は時を隔てても、私たち日本語を読める者の心を打つ。
しかもそういうところに限って、まさに翻訳不可能なのである。

以上私が教えられたことについて記してきた。これを記録しながら、私が感じたことの幾つかを、書きとめることとする。

① よろずグローバル化が急速に進んでいる今日、英語が国際通用語として用いられることが避けられない。だから私のような老い先短い老骨は別として、未だ将来のある日本人は英語を駆使する能力を身につける必要があるだろう。

しかし庶民すべてが高度な英語を習得することは要しない。来日する外国人観光客に商品を販売すること等を仕事とする人たちは、それぞれ必要な英語会話能力を修得すれば事足りると思われる。

しかし、政治や経済などの分野で外国人と折衝する機会のある人は、通訳を介することなく、自ら交渉するだけの語学力を要するので、特別学習する努力をせねばなるまい。

② 今日小学校に英語教育をという話が持ち上がっているが、それは如何なものだろうか、疑問に思われる。
語学に限らず幼い時から学習した方が良いには違いないが、英語より日本人として必要な常識、学力、体力を培うことが大切ではないか。本人の希望で課外に英語塾などで学習することまで妨げるものではないが、成人して社会人になっても英語を必要としない者が、今後も大半を占めるのではないかと思われる。

だとしたら、英語を全ての子に強制する必要はないと思われる。むしろその学習時間は、正しい日本語や歴史、社会などの学習に充てるべきものと考えるが、如何なものであろう。

③ 自然科学などの学問は、日本語の原稿を「普遍語」である英語に翻訳しても、原文と翻訳文との間に、さしたる齟齬が生じないと思われる。それは日本の学問用語はもともと西欧の言葉(普遍語)を翻訳して作られた言葉であることによる。

しかし小説などの文学はそうは行かないものと思われる。私は外国語は全く出来ないので、考え違いをしているかも知れないが、日本語の会話では、例えば、「君は以前に会ったことがある気がする・・・)と「貴女には前にお会いしたように思われますが・・・」のように男言葉と女言葉の違いがあるが、外国語ではどうなんだろう。また日本語の文章では、しばしば主語が省略されるが、外国語に翻訳するとき、その点はどうなるのだろう。

こんなことを考えてみると、日本の学術論文は外国語に翻訳しても不都合はないが、小説などの文学は、翻訳不可能なことでは無いかと思われる

まして五・七・五の十七音を定型とする俳句や、五・七・五・七・七の三十一音を基本とする短歌などは、その語間に込められた余韻は、翻訳し得ないのではないか。

あれこれ考えてみると、日本文学は、日本語で書かれているから存在価値があるもので外国語に置き換えられたら、その途端に真価(命)を失う運命を、本質的に背負っているものであると思われる。

④ 平成に入った頃から、若者の読書離れが指摘されているようであるが、我が家に閉じこもっている私には、よく分からないが、世界的に貴重な存在として認められてきた日本文学とそれを支える優雅な日本語が滅びることのないよう、大事にして貰いたいとひたすら願うばかりである。

(平成二十七年四月十八日)

ramtha / 2015年7月15日