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「太平洋戦争中の新聞社の苦労」

先の太平洋戦争中は、軍による情報統制が厳しく、我々庶民はいわゆる「大本営発表」によるニュースしか聞くことができなかった。しかし次第に戦況が傾き、兵員不足を補うための学徒出陣や学業を放擲(ほうてき)しての勤労奉仕などで、戦況は「大本営発表」の戦果とは異なり、著しく悪化していることに、さすがの国民もうすうす気がついていたようである。

しかし、他に情報を手に入れることもできない国民は捉えどころのない不安に戦いて(おののいて)いたに違いない。当時私は内地防衛部隊の一員として鹿児島県大隅半島の山の中に居たのでそのあたりのことは知らない。

昨日の毎日新聞には戦争当時のマスコミの苦労が紹介されていた。私たち部外者には初めて知ることばかりで大いに勉強させられた。忘れぬように書き留めておく。

太平洋戦争開戦直後、東京有楽町に当時あった毎日新聞東京本社で女子トイレが改造された。

「欧米部別室」の木札を掲げたが、音が漏れないようドアは二重にし、壁にビロードの黒いカーテンを張り巡らせ、宿直用の二段ベットも置いた。この秘密の小部屋で他国の短波ラジオを受信し、数々の記事が生まれていく。それは社内で「便所通信」と呼ばれた。

「【ストックホルム特電七日発】デーニッツ獨総統はラジオを通じて獨軍の全面的無条件降伏を公式に発表した」
1945年5月9日朝刊で、毎日新聞はドイツの無条件降伏を伝えた。特電とは特別の電報通信の略で海外特派員などが送ってきた記事であることを指す。現在の新聞もそうだが、記事の冒頭に【○○○◇◇】というクレジット表記がつくのは通常、海外特派員発の記事や通信社の配信記事だ。

ところが太平洋戦争中の毎日新聞によく登場するリスボン(ポルトガル)、ストックホルム(スウェーデン)、チューリッヒ(スイス)など中立国初の【○○特電】【○○本社特電】は事情が異なる。前出の記事が示しているように、多くは東京本社内でラジオ情報を基に作られた記事だった。

社史などによると、41年12月8日の太平洋開戦と同時に、毎日新聞は大本営発表を除き、海外情報を入手する公の手段を失った。特約を結んでいた米国UP通信からの配信は途切れた。海外特派員活動も通信事情の悪化などで事実上ストップした。社内では開戦当日のうちに極秘の緊急会議を開き、法律で禁じられていた短波ラジオの受信を決めた。

当局に漏れれば独自の情報源は失われる。検討した結果、三階の編集局入口に近い女子トイレが選ばれた。
当時欧米部員であったが渡辺善一朗氏(故人)の回想によると、受信を担ったのは、二重国籍の日系二世ら三十歳前後の八人。昼間は雑音が多く聞き取れないため、深夜に周波数のダイヤルを回す。
米国、英国、フランス、ドイツ、ソ連、トルコ、オーストラリア、中国などのラジオ放送を受信し、ニュースを中心に宣伝や謀略放送も記録した。鉛筆で走り書きし、内容に間違いがなければタイプする。そして「別室」と編集局内の欧米部を結ぶベルを押し、取りに来た欧米部員に渡す。デスクの判断で記事を使う場合、翻訳する。

仕事内容は口外厳禁だったが、社内ではいつしか「便所通信」と呼ばれるようになっていた。

第二次世界大戦の開戦前から、ラジオはメディアの新媒体として各国の宣伝に利用され始め、さながら電波戦の様相を呈していた。毎日新聞幹部はこれらの受信により、大本営が隠す戦況をつぶさに把握していたという。

例えば太平洋戦争の転機となった42年6月5~7日のミッドウエー海戦。外国ラジオは「日本艦隊は壊滅的打撃を被った」と繰り返し、「赤城」など空母四隻の沈没も伝えた。しかし、大本営は六月十日、空母四隻、航空機約三百機などの被害を隠し、逆に戦果を誇大に発表した。毎日新聞は翌十一日朝刊で大本営発表をそのまま報じた。新聞紙法、治安維持法などにより報道内容が厳しく統制されていたためだ。
掲載できない情報は本社幹部に報告され、情勢判断の材料として「マル秘」の紙袋に保存された。

当時編集総長だった高田元三郎氏(故人)は「新聞は完全に国策遂行の機関となり、紙の弾丸としての役割を果たすだけになった。戦争も末期になると、白を黒といい、敗戦の事実をも隠蔽して、士気高揚をやれというのが一番つらかった」と振り返っている。

ラジオを通じて欧州戦線やガダルカナル島の戦い、山本五十六の死、ヤルタ会談、ポツダム協定などの詳細がもたらされた。渡辺によると「便所通信]は終戦後も続いたが、社内から「アメリカ側の目に触れてはまずい」との声が出始め、 45年8月20日頃、元のトイレに戻された。

戦後七十年にして初めて知る新聞社の苦悩であるが、当時同じような苦労が、色々な業界にあったことと思われるし、多くの人が様々な苦しみを経験したことに違いない。

顧みれば、病弱な私も、陸軍の兵卒として駆り出され、古参兵に毎日のように殴られたり、内地防衛部隊として駐在した鹿児島県大隅半島で、米軍機の機銃掃射に逃げ惑うようなこともあった。しかし他の多くの人が外地での苛烈な戦闘で戦死する中、終始内地にとどまり、無事終戦を迎えることができたのは、まことに幸運であったと言う他は無い。

(平成二十七年六月二十三日)

ramtha / 2015年12月5日