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「霊長類学は京都大学が発祥」

今日の毎日新聞の「時代の風」には、京都大学長山極寿一氏の「インターネットMOOC」と題する一文が掲載されている。

これを拝見して、初めて知ったことなど、いろいろと教えられることがあった。そこで私の興味をそそられた部分を転記する。

(前略)この度、MOOCという「インターネットで誰でもが無料で受講できる大規模な開かれた講義」を手がけることになった。(中略)

霊長類学、すなわち猿や類人猿の観察を通して人間を知るという学問は、京都大学が発祥の地である。欧米には野生の霊長類が生息していない。

動物と人間を連続的にとらえる見方が、キリスト教圏では育ちにくかったという背景もある。しかも、日本の霊長類学は全ての生物に社会があるという、欧米の思想ではとても受け入れられない考え方を元にして始まったのである。その創始者である今西錦司の「環境はその生物が認識し、同化した世界であり(環境の主体化)、生物は身体の中に環境を担い込んでいる(主体の環境化)」などという言葉は難解で、いったいどう訳したらいいものかと悩む。

しかし今西の「すみわけ」と言う言葉は日本社会に広く普及し、自然現象ばかりか社会現象にまで応用されている。もともと鴨川の流れの速さに応じて、数種類のヒラタカゲロウが生息場所を分けている現象から発想した概念だ。企業間の共存に同じ言葉が使われるのはおかしい。

しかし、日本には「本歌取り」という伝統があり、うまい表現を応用していく技法がよく使われる。 「進化」や「共生」という生物学の用語が生物以外の現象に当てはめられるのと同じだ。霊長類学は日本の文化の中にしっかりと根付いているのである。

それならば、日本の霊長類学の考え方を海外の言葉に翻訳して世界に伝えることが、日本の文化や考え方を普及させることにつながるはずだ。霊長類学ばかりではない。西田哲学の無私の思想など、とても外国語に翻訳できそうにない。日本国憲法だってそうだ。条文に書かれた日本語の意味とその奥行きを読み取るためには、外国語では不可能な部分もあるだろう。

しかし、それをあえて外国語で発信することで、日本の文化と思想の入り口を示すことになる。 MOOCをきっかけにして日本の考え方に世界の人々が関心を持ってくれればいい。

考えてみれば、ギリシャ哲学だって、フランス社会学だって、私たちは日本語に訳して理解している。本当はその考えの底まで日本語では理解が及ばないのかもしれない。でも、それらの思想は世界に流通し、多くの言語に訳され、言語の壁を超えて私たちの知の遺産となっている。(後略)

これを見て、初めて教えられたこと、考えさせられた事など書き留めておくことにする。

1)野生の霊長類が欧米にいないというのには驚いた。日本では、猿はおとぎ話の猿蟹合戦や桃太郎などで、また中国では西遊記に登場する孫悟空など、子供の頃から馴染みの動物で今日でも野生の猿が人里に現れることがしばしば耳にするので、世界中どこでも棲息しているものと思い込んでいた。万事不勉強な私には、他にも思い込みによる誤解が数々あるのではと反省させられた。

2)キリスト教徒の中では、猿と人間を連続的にとらえることに抵抗感があるということは、旧約聖書の創世記物語が、ダーリンの進化論より強く彼らの潜在的思考を支配しているということだろうか。無宗教の私にはまことに理解しがたいことである。キリスト教徒の頭の中では、宗教と科学はどのような仕分けがされているのだろうか。無宗教の私には永遠にわからないことだろう。

3)それと同時に、言語を異にする文化の間では、山極先生が言われるように、100%の理解はありえないことを肝に銘じておくべきことを改めて思い知らされたことである。

(平成二十七年七月十九日)

ramtha / 2016年1月7日