筋筋膜性疼痛症候群・トリガーポイント施術 ラムサグループ

第三十四話「パスポートが無くて」

昭和二十八年の飯塚の夏は、ことさら炎天続きでまことに暑かった。日照り続きのため給水量が減少したのであろう、私達が住んでいた旌忠公園下の社宅では、水道の出が悪く、終日水道栓を開けっ放しにしていても、浴槽を満たすに至らない状態であった。このため、わが家では順子が近くの井戸からバケツで水運びをして、ようやく風呂を沸かすと言う日が続いた。
 
前年十月に長男が生まれ、三才の長女と二人の幼児の養育に追われる中で、炎天下の水運びがこたえたのであろう、秋風の立ちそめた頃、順子は突然喀血した。肺結核の前科のある私から感染していたものが、重なる疲労で発病してものと思われる。
 
早速入院加療を要することとなったが、幼児二人を抱え、私は途方に暮れる思いであった。幸い順子の実家が近く、そちらに子ども二人を預かって貰い、私は社宅を返上して独身寮に入ることとした。
 
順子の両親にしてみれば、長年にわたる子育てからようやく解放された途端に、乳離れしたばかりの孫を押しつけられ、随分と迷惑なことであったに違いない。ともあれ、子どもを預かって貰った私は大助かりであった。
 
当時本社労務課勤務であった私は、その頃ようやく会社の労務行政の中枢に参画し、仕事が面白くてたまらないと言う時期であったので、ともすれば、子どもは妻の実家に押しつけたまま、顧みないような有様であった。
 
子ども達にしてみれば、祖父母や母親の弟妹に随分可愛がられての毎日だったようだが、何と言っても幾日も両親の顔を見ない暮らしには、淋しい思いをしたことであろう。たまさか私が訪ねた折、いたずらでもして叱られたのか、長女が廊下のガラス戸越しに外を見て泣いていたが、仕事にかまけて希にしか訪れない薄情な父親を、責めて泣いているように思われたことであった。
 
一年後順子が退院し、再び親子四人の暮らしが戻った日、やっと二才の長男は久しぶりに見る母親の顔を訝しげに眺め、今まで馴れ親しんだ祖母の膝から離れようとしない有様であった。
 
順子の入院中私は独身寮の世話になったが、一度家庭の味を経験した身には、寮の生活はまことに索漠として味気ないものである。残業などで帰りが遅くなれば、夕食の汁は冷め、肉の脂などは皿の底に白く固まっている。
 
自室に戻っても火の気は無く、話す相手も無ければ早々に冷たい万年布団にもぐり込むこととなる。まだ洗濯機も無いことだったから、独身時代にもしんどい思いをした洗濯はひとしお苦になる。
 
残業からの帰途、ああ今日も冷たい夕食かと考えると、つい酒蔵の縄暖簾をくぐるという有様で生活が荒んで来る。もともと病弱な上に不摂生な暮らしをすれば、結果は火を見るより瞭かである、この頃私の中では再び肺結核が進行していたようである。
 
昭和二十九年十月、会社は産業セメント(株)を合併し、社名も麻生鉱業から麻生産業となった。それに伴い、今まで産業セメント人事部が担当していた田川工場労組との団体交渉は、本社労働部で引き受けることとなった。
 
当時田川労組の上部団体である全国セメント労組は、総評、総同盟のいずれにも属しない中立系労連であったが、その中で田川労組はどちらかと言えば左がかった急進労組であった。加えて会社合併により麻生労政に対する反発意識も強く、合併直後の年末ボーナス交渉では早速ストライキに入るなど、労使間には険しい空気が漂っていた。
 
そうした中で本社労務課の課長代理であった私は、労働協約交渉の交渉委員としてその衝に当たることとなった。
 
従来相手としてきた石炭部門の麻生労連は、労使協調を基本路線とする総同盟系労組であり、長年の折衝によって組合幹部も気心の知れた連中であったが、初めて相手とする田川労組の交渉委員はもとより、会社側に居並ぶセメント出身の労務担当も気心が知れず、合併による被害者意識と猜疑心の真っ只中に飛び込んでの交渉となった。
 
今から思えば若気の至りで汗顔の限りであるが、当時三十二才の私は烏滸(おこ)がましくも、会社労政を一身に背負った気構えで、唯一人、居並ぶ労組交渉委員と丁々発止と渡り合った事であった。
 
自ら抱え込んだ分不相応な重荷と、一家離散による荒んだ生活に、私の病状はとみに進行していたらしく、田川工場での交渉の帰途は疲労が甚だしく、毎度車の後部座席に身を横たえて烏尾峠を越えるという有様であった。
 
こうして無理が祟って、順子が退院し、ようやく家族が一つ屋根の下で暮らすようになったのも束の間、半年後には、今度は私が飯塚病院に入院する事となってしまった。
 
順子の結核は病巣も比較的新しかったせいか、ストレプトマイシンとパス、ヒドラジッドによる化学療法で急速に快方に向かい、入院一年で退院することが出来たが、私の場合は小学校四年生以来の古い病巣で、化学療法の効果も遅く、治療開始より半年経っても左肺尖部にある二つの空洞のうち、一つは消滅しかかっているが、いま一つはあまり変化がないと言う主治医の伊藤先生の説明であった。
 
先生はさらに化学療法の継続を勧められたが、半年かかってもなお頑強に消滅しない病巣は、今後一年や二年の化学療法ではとても治癒するとは思われない。現に私の入院している病棟には、入院歴が三年も四年もありながら、なお見通しの立たない患者が何人もいる。
 
会社の就業規則によれば、病気欠勤六ヶ月で休職、休職後一年で一切の給与は支給停止となり、更に一年経過すれば自動的に解職となる。そうなれば親子四人路頭に迷うほかはない。
 
そこで私はその頃ようやく始まった肺葉切除手術を受け、一挙に病巣を剔出してもらってはと考えた。当時肺葉切除手術は、飯塚病院では未だ執刀医が居らず、九大の先生の出張指導の下で、外科の吉原先生がその技術を習得していると言う状況であった。
 
また一般的にその成功率はフィフティフィフティとか言われているとも聞き、順子もその両親も不安がって賛成せず、伊藤先生も内科医の立場から賛同しかねるという感じであった。しかし、短期決戦を望む私の強い願いで手術を受けることとなった。昭和三十一年の春である。
 
当時飯塚病院での肺葉切除の例は未だ少なく、たしか私が七人目だったかと思う。従って術後の経過などを含め、評価は未確定の時でもあり、一旦は手術をと思い定めたものの、病室の窓辺に立って私の心は不安と期待に揺れ動いていた。
 
 こともなげに 肺切のこと妻に語り 自ら手術を肯はむとす
 
  空洞のあるあたりに手をおきて 今宵も眠りに入らむとす
 
 空洞のわずかに消えしフイルムを 角度を変えて またかざし見る
 
 梧桐(あおぎり)の幹を伝わる雫あり 肺切手術を受けむと決意す
 (当時の日記より)
 
手術の前日、別の個室に移され、夕食を最後に一切の飲食を禁止された。もう後戻りは出来ないという思いが脳裏をよぎったが、それでかえって心が落ち着いたようで、その夜はうっすり眠れたことであった。
 
手術当時の朝、採血、採尿のあと、基礎麻酔注射をされたが、暫くするとホロ酔い気分の、まことにいい気持ちになった。正午過ぎに手術室へ運ばれる時は、もう酔いが醒めた感じであった。日頃呑み助の者には麻酔がかかりにくいとか聞いたことがあるが、その為だろうかと思ったりした。
 
手術台に上がり、本格的な全身麻酔をかけられた。その際、数を数えさせられたが、普通の人は四つ五つ数える内に落ちるというのに、十以上数えるまで意識があったのも、日頃のアルコールのせいであったのかも知れない。
 
こういう手術には近親者が立ち会うこととなっているが、身内の者は誰もとても立ち会えないと言うので、親友の高井君と久永君が立ち会ってくれたということを後日聞かされたが、両君にはまことに嫌な役を引き受けて貰い、申し訳ないことであった。
 
 
 手術は左の背中から左腋下へメスを入れ、肋骨の一部を切断し、その間から左肺葉を引き出し、病巣部分を切り取り、また元に戻し縫合するという大がかりなもので、随分時間がかかったようだ。夜に入ってやっと病室に戻って来たものらしい。
 
私が麻酔から醒めたのは真夜中であった。とにかく喉が渇いて水が欲しくてならない。しかし朝までは水を飲んではいけないとのこと。あの夜ほど朝が待ち遠しいことはなかった。時代劇の刃傷場面では、斬られた人が必ず水を求めるものだが、その気持ちが切実に実感させられたことであった。
 
夜明けになってやっと待望の水を与えられたが、どうもうまく嚥下できない。口元がなんだかひん曲がっている感じである。全身麻酔をかけられたのは初めての経験だが、歯科医で抜歯の折に、何度か局部麻酔をかけられたことがある。その時は抜歯後二、三時間は唇のなど口元が痺れていたように思うので、その類かと思っていたがどうもおかしい。錠剤の薬も嚥下できない。会話も何となく不自由である。
 
そのうち付き添ってくれている順子が、顎が外れているのではと気づき、歯科の鳥巣先生に来てもらった。鳥巣先生は病床の私を一目見ると「あ、これは顎が外れている」と言いながら、すぐ顎を入れてくれ、途端に楽になったことであった。
 
全身麻酔のため口腔に差し込んであった麻酔吸入管を、私が無意識のうちに強く食いしばっていたのだろう。術後麻酔士が強引に取り外すときに顎が外れたものらしい。このため長時間無理な形で呼吸したことにより、急性肺炎を惹き起こしてしまった。その日から高熱を発し、私は意識を失い生死の間を彷徨うこととなった。
 
肺炎には抗生物質をということで、伊藤先生は当時の新薬を種々投与されたらしいが、私の身体は折角の薬を吸収することなく、殆どそのまま尿に排泄する有様で効果がない。高熱は幾日も続き、先生から「呼ぶべき人は呼んでおくように」と、暗に万一の場合の覚悟を促すような話もあったとか。
 
そのうち伊藤先生は仙台での学会に出張されることになり、その間は先生の指名で中尾忠喜先生に担当して頂くこととなった。
 
その中尾先生は私のカルテと病状を診て、順子に「今までの薬は殆ど吸収されてないが、いま新しい抗生物質の試薬があります。試供薬ですからその効果もまだ不確定で、またどんな副作用があるのかも分かりません。しかし既存の薬がどれも効かないので、これを投与してみたらと思うのですがどうでしょう。」と言われる。順子は「とにかく先生のお考えで」と、ひたすら新薬の効果にすがる思いでお願いした。
 
後に聞いたところでは、たしかその薬はアイロタイシンではなかったかと思うが、その最後の薬が私の体質に合っていたものらしく、排尿への流出も少なく、服用後はさしもの高熱も下がり始め、この間意識不明の状態は一週間ばかりも続き、私の病状を見守る順子はもちろん、その両親にまでも夜も眠れぬ心労をかけてしまった。
 
術後の体内の出血を吸引するポンプが四六時中枕元で作動していたが、沈鬱な病室に響くその単調な作動音が、私の余命を刻んでいるかのように聞こえ、未だにその音が忘れられないと、義母が先日も昔語りにしていたことである。
 
本来の主治医である伊藤先生は当時内科医長でもあり、学究肌の名医であったが、極めて慎重な方であったから、思うに、効能や副作用について、未だ評価が確定していない試供薬を投与してみるような冒険は、最後までされなかったのではないか。先生の学会出張によって、たまたま中尾先生に担当して頂いたのは、結果的にまことに幸運なことであったような気がする。
 
学会から先生が帰って来られた時は、私はすでに意識を取り戻していたが、回診に来られた先生は「佐藤さん、良く生きていましたね。」と驚嘆され、そのあまりにも率直な言葉に、私の方が応答に困惑したことであった。
肺切そのものの術後経過は良く、肺炎の治まりに時間がかかったが、入院一年で退院、翌年三月には職場復帰する事が出来た。
 
後日、順子は「伊藤先生から近親者を呼ぶようにと言われた時は、葬式はどうしたらよいかと困った事でした。」と述懐したものだが、両親はクリスチャンであるものの、私自身は無宗教だから、その悩みは切実なものであったろう。
 
その折「あの世へのパスポートが無かったから、地獄の入り口で門前払いとなったのだろう。」と冗談を言ったことであったが、そんな冗談が言えるような健康を取り戻し、その後三十余年も生き長らえることが出来たのは、両先生をはじめ、私の治療に当たって頂いた多くの方々のお陰である。
 
伊藤先生は私より十年ばかり年長であったものの、中尾先生は一、二才下だったのに、お二人ともすでに故人となられてしまった。地獄の門から呼び戻して頂いた私の方が、未だに余生を保っているのは、何だか申し訳ないような気がする。
 
(平成二年)

ramtha / 2011年3月25日