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「敗戦直後の悲歌」

今年は戦後七十年と言う節目の年である。先日の新聞では、日本人男性の平均年齢が概ね七十六歳と伝えられていた。今年七十六歳を迎えた男性は、終戦の年に中学校に入学している。考えてみれば、ようやく自分の意見を持つ年頃に、社会の価値観が一八〇度逆転を余儀なくされた終戦を迎えている。言い換えれば現存する七十六歳以上の日本人男性は、価値観の転換と言う人生には滅多にない精神的衝撃を経験させられている。

終戦時、私は陸軍の内地防衛部隊の一兵卒だった。末端の兵士ではあったが、本土上空を飛ぶ飛行機は米軍機ばかりという状況から、戦局が如何ともし難いことが推測されていた。

しかし敗戦後、米軍の占領統治によって、過去の価値観が全て否定され、民主主義を始めとするアメリカ文化によって精神的自己否定を余儀なくされようとは思ってもみなかった。

終戦直後はその日その日如何にして腹を満たすかに追われ、自分の心の中を覗いてみる余裕もなかった。さらに家庭を持ってからは、生活の糧を得て、わが子を育てる一家の主として、目前の仕事に明け暮れる日が続いた。そして三人の子供が巣立ってしまった時は、すでに老境に入っていた。
仕事を離れ、都会の喧騒から逃れて、田舎暮らしを始めて、ようやく自らの来し方を省みることになった。
そんな時に毎日新聞所載の歌人・篠弘氏による「戦後七十年を迎えて~敗戦直後の悲歌」に出会った。
そこに掲げられた代表的歌人の歌を拝見し、心を揺さぶられるものや同感するものもあった。生涯繰り返し読むべく、ここに書き留めることとする。

当時の国民は本土決戦を覚悟していた。そのように洗脳されてきたから、敗戦に遭った衝撃がいかに大きかったことか。

沈黙のわれに見よとぞ百房(ひゃくふさ)の
黒き葡萄に雨ふりそそぐ          斉藤茂吉

郷土山形の疎開先での山道で、沈黙を余儀なくされた悲哀をかみしめる。戦意高揚に協力していきた悔恨の思いがにじむ。

垣山にたなびく冬の霞あり
我にことばあり何か嘆かむ         土屋文明

やはり疎開先の群馬から、国が破れた後も変わらぬ里山を目撃しながら、滅びることのないことば(短歌)を持つと確信する。茂吉が悲嘆にあえいだのに対して作歌の復活を促した。

戦時下の家人には、時流に与(くみ)したと言う痛手があった。忌まわしい禍根を絶ちたい、いわば自責の念が力作となってくる。

あなたは勝つものと思ってゐましたかと
老いたる妻のさびしげにいふ        近藤由美

一日の仕事を終えた安らぎの気分ではない。焼け跡の先に、水銀のように光った海面が目を射る。冷え切った感性である。

一本の蝋燃やしつつ妻も吾(わ)も
暗き泉を聴くがごとくゐる         宮 柊二

ようやく得た平穏に浸りながらも、泉の音を聞こうと言う祈りには、何かを求めて止まない飢餓感が、つきまとっている。

兵たりしものさまよへる風の市(いち)
白きマフラーをまきゐたり哀し       大野誠夫

白い絹のマフラーは、もと特攻隊の兵士か。都市の闇市にさまよう姿はいかにも虚しい。

戦後の不安と混乱に満ちた「悲歌」の時代に外ならない。ともにこの内面化や主体性の確立に向かうのは、むしろこれ以降のことである。中学生の私は

かたすみに空きしをもとめ停電の
夜をまなびき山ノ手線に

などと詠み始めた時期である。今の学生には想像しにくい体験と、大岡信が評してくれた。

昭和二十二年当時、飯塚病院の皮膚科の医長で、お名前は忘れてしまったが、アララギにもしばしば登場する短歌に堪能な先生がおられた。その先生が指導される短歌会が本社前クラブで毎週催されていた。先輩の木庭暢平さんに誘われて、詩才に乏しい私も、何度か参加していた。しかし、よろずだらしない私の手元に当時の作品が見当たらない。

昭和三十一年、私は三度目の肺結核を患い、飯塚病院に入院、一年半にわたり療養生活を余儀なくされた。ひたすら安静の毎日、徒然なるままに、駄作を書き記した。当時の思い出に、その幾つかを掲げておく。

耳鳴りし頬こわばりて故もなく
腹立ちてくるマイシンうてば

患者の体質によって異なるようだが、私にはストレプトマイシン注射の副作用が甚だしく、その後遺症で左の耳はいわゆるマイシン聾となってしまった。

けたたましく泣く声何に怯えしか
小児病棟の夜は更けゆくに

私の病室と中庭を挟んで、南側に小児結核病棟があった。昼間は子供たちの賑やかな声が、ともすれば落ち込みがちな療養生活を明るくしてくれたものだ。しかし完全看護とはいいながら、毎夜親の顔が見れないベットで寝なければならない子供は哀れである。

夢の中に喫(の)みし煙草のうまかりし
目覚めしベッドにわれ熱測る

入院の日に、喫み残しのタバコは、袋ごと握りつぶしてゴミ箱に捨てた。しかし喫煙の欲望は捨てきれず、一ヵ月ばかりは、毎夜夢に現れて私を悩ました。

レントゲンフィルムをかざす医師の表情(かお)
息をひそめてわれ覗き見る

私の主治医は伊藤孝一先生であった。先生は研究熱心な内科医長であったが、私の病状回復のはかばかしくないことに気をもんでおられたようである。

化学療法を始めて半年が経過した。しかし経過が思わしくない。この状態では、これから先何年かかるか分からない。当時始まったばかりの外科手術に賭けるしかないのではと思うに至った。しかし手術の成果はヒフティーヒフティーと言う。私の心は期待と不安に揺れ動いていた。
病棟の中にはに青桐(アオギリ)の木があった。その木は窓越しに、そんな私を見下ろしているようだった。

青桐の幹をつたわる雫あり
肺切手術をうけむと決意す

肺葉切除手術は幸いにして成功したものの、手術時の麻酔管取り外しの不手際で肺炎を併発し、完治退院にはさらに一年ばかりかかってしまった。しかしそれだけに退院の喜びはひとしおのものがあった。

退院の今宵眠れず二時を聞く
子等の寝息のかたわらにして

しばらくは体力回復のため自宅療養をしていた。わが家の裏は旌忠公園の小高い丘となっており、人気も稀な公園を散歩して足慣らしをした。

この丘に子等の手をひき上り来れば
わが家の庭に妻が手を振る

子供等の先を争い肋木(ろくぼく)へ
走りし後にブランコ揺れおり

(平成二十七年九月二十一日)

ramtha / 2016年2月5日