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「麻生OB会物故者を偲ぶ」

先日開催された麻生OB会には、五体不自由のため残念ながら出席できなかった。当日のパンフレットが今日送られてきた。

欠席者の近況報告も懐かしく読ませてもらったが、最近の物故者名簿には、生前親しくして頂いた方が少なからずあり、驚くとともに、日頃は忘れていた昔の記憶を手繰り寄せ、時の経つのも気がつかなかった。後日のため書き留めておくことにする。
なお昨年の物故者名簿で書き落としていた方々についても、併せて書き留めることにする。

安藤英敏さんは昨年十一月に亡くなられたとのことであるが、確か私と同年齢ではなかったかと思われる。労務係としては温和な人柄で、本社労務係を長くされていたと記憶している。

同じ労務屋の故高島信義さんと親しくされていたようで、十年ばかり前、飯塚本町の商店街でお二人揃って出会い、立ち話したのが最後となった。
晩年は一人暮らしをされていたと聞いたような気がするが、最後はどなたが看取られたことだろう。きっと、安らかな大往生であったことだろう。

青柳ミエ子さんは飯塚市川島の自宅から本社の電話交換室に長年勤務されていた。本社勤務社員はもとより、全社の管理職に至るまで、声を聞き分けていたと言う伝説の持ち主であった。
確かお兄さんは本社営繕係の職員をされていた。お二人とも実直なお人柄であったと記憶している。昨年九月逝去とあるから白寿に近かったのではあるまいか。

泉健二さんは明治専門学校(現九州工業大学)卒の堂々たる体躯の採鉱係で、昭和二十二・三年の頃、職員宿舎紅葉寮(現大浦荘の隣。廃墟となっている)で独身生活を共にした。仕事では関係はなかったが、毎晩のように麻雀をした。彼の麻雀はその体躯と同様で、豪快で一荘(イーチャン)に一・二回位しか和了(ホーラ)することはなかったが、上がれば概ね満貫で、その度にみんなを驚かせていた。その後佐賀県久原炭坑に転勤し、交流も途絶えていた。
昭和三十一年、私は肺結核を患い、翌年肺葉切除手術を受け飯塚病院に入院中、突然彼が見舞いに来てくれた。突然の出現にも驚かされたが、別人ではないかと思うほどの変貌には愕然とした。
聞くところによると、彼も肺結核を患い、三年半にわたる闘病生活で会社も退職を余儀なくされ、ずいぶんと苦しい生活を強いられたと言う。一年ばかり前、漸く健康を取り戻し、ささやかな石炭商を営むまでになったと言う。先月、麻生での旧友から私の話を聞き、同病相憐れむ思いでやってきたと言う。

独身寮での僅かな縁に過ぎない彼の暖かい見舞いに、私もいたく感動したことが思い出される。
その後は長年、年賀状の交換が続いたが、何の恩返しをすることもなく、彼は旅立った。私も遠からず追いかけることになるだろう。泉さんよ、また冥土で君の豪快な満貫を見せてくれたまえ。

井手武雄さんは、上三緒炭鉱の経理係を長くされていたと記憶している。しかし、それより閉山後の上三緒社宅と嘉麻川を舞台にした小説を発表され、そんな文筆家であることを初めて知り、驚かされたことである。
その作品はNHKでドラマ化され、放映されたのを家内ともども拝見したことであった。歳は私とさして違わなかったようだから、九十代前半になっておられたと思われる。

太田善次郎さんは、本社生産部で機械担当のエンジニアであられたが、格別内気な人柄であったことが思い出される。吉隈炭鉱で巻き上げ機の修理を指揮しておられた姿が目に浮かんで来るが、私が吉隈炭坑の労務係の頃の事だから、あれは昭和二十四・五年頃の事であったに違いない。昨年九月に他界されたそうだから、白寿前後には達しておられたのではあるまいか。

今年七月に亡くなった太田学君は昭和三十四年入社で、その採用銓衡には、当時文書課勤務であった私も関係していたので、あまりにも早い旅立ちに愕然とした。
学生時代はスポーツ選手をしていたほどで、頑健な彼がどうしてと、今も信じられぬ思いである。誠実、実直な模範社員であった若き日の姿が忘れられない。

柿原勝治君も採用銓衡に立ち会った一人で、温厚寡黙な印象であったことが思い出される。
よろず丹念で着実な仕事ぶりが買われて、当時導入したばかりの電算機業務を担当してもらった。その職場で美人の奥さんと結ばれ、結婚式では、お二人の依頼で私ら夫婦が僭越ながら仲人役を務めたことであった。

私は昭和四十六年上京したので、その後の彼の活躍ぶりについては知らない。
平成になって、私は飯塚市に引き上げ隠居をすることとなった。何の用があってのことだったかは忘れてしまったが、たまたま飯塚病院を訪れた折、当時飯塚病院事務長として病院経営の指揮をとっていた垣花君と再会することができた。しかし、忙しそうにしていたので、長話は遠慮して退去したが、それが最後となった。今となっては心の遺ることとなってしまった。

佐々木正満さんは旧産業セメント田川工場の製造担当技術者で、私は石炭・セメント合併後初めて知った。
会社合併に伴い、職員組合も合併し、佐々木さんは旧セメント職員を代表して副組合長に就任された。そんなことで当時人事担当の私は幾度も佐々木さんと接触する機会があった。
組合幹部役員は仕事の性質上、複雑でしたたかな人物が多いものだが、佐々木さんは格別生真面目な人柄で、相手をするこちらも、襟を正して臨む気分にさせられたことである。

晩年八女郡の石綿加工(株)に転出された。退職後も現地に永住されていた。毎年頂いていた年賀状が今年はなかったので、気にかかっていたが、今年五月他界されたとのこと。今一度昔語りをと惜しまれてならない。

麻生鉱業には社員の教育施設として太山荘があった。あれは昭和二十二年の秋のことだったと思うが、当時の労務担当者を集めて二泊三日の再教育が行われた。小林虎男・木場暢平・永富敬一郎といった錚々たる先輩に混じって私も参加させられることになった。

一日目の夕食の後は囲炉裏を囲んで、吉鹿部長・高木部長を中心に全員の座談会が行われた。
当時は終戦後間もない頃で、GHQの指示で、全国各地に労働組合が作られ、労働組合法、労働基準法、労働関係調整法などが次々に制定され、企業の労使関係が大揺れに揺れる時代であったから、座談会の内容もそれらをめぐって侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が闘わされていた。主役は勉強家の木庭さんで、小林さん、永富さんらが現場の実例を上げるなどしていた。不勉強の私は、ただ先輩の卓説を拝聴するばかりであったが、隣に座っていた上三緒炭鉱労務係の出口俊男さんは、ひたすら皆さんの話を丹念にメモされていた。
後で聞いたところでは、出口さんは私と同年、戦時中は陸士出身の高射砲部隊の将校であったとか。
理数系に強く、また勉強家でもあった。そんなところから、アメリカ式経営学が導入された時も、故福沢隣(ちかし)さんと共に、本社研修課で社員への普及指導に当たり、後には新入社員教育などを担当していた。
また電算機導入の時も選ばれて、その任務を果されていたように記憶している。

昭和四十六年、私が上京転出した後の活躍は知らないが頭脳明晰で、元軍人とは思われない明るい円満な人柄は忘れられない。

中村健二さんは、旧制福岡高校での同期で、理科甲類の学生であった。昭和十八年十二月、文系の私は徴兵延期停止措置のいわゆる学徒出陣で、福岡の歩兵部隊に入隊した。
あれは入隊後まもなく、粉雪のちらつく城外練兵場で、匍匐(ほふく)前進の訓練をさせられている時だった。
ふと頭を上げると、すぐそばの道路を歩く大学生がいる。暖かそうなオーバーコートを着て歩いている。今時こんな姿をしているのは九大の理系学生に違いない。
こちらは動作が鈍いと班長に尻を叩かれているのにと思うと、妬ましくてならない。どんな学生かと上目遣いに見れば、九大造船学科の中村君ではないか。哀れな姿を見られはしないかと、慌てて顔を伏せた事は、今も屈辱的な思い出として忘れない。

終戦後私は麻生鉱業(株)に入社したが、福岡高校で体育の教官をされていた田中幸生さんが、麻生の社員としておられるのには驚いた。
当時麻生は、実業団バレー競技の全国大会で優勝する強豪チームを有していた。田中さんはその部長兼コーチをしておられたが、かつてインターハイで優勝した当時の旧制福岡高校の選手であった増田五郎・田代勝次君など優秀なメンバーを集めてこられていた。

九大で造船技術を学んだ中村君も敗戦直後はその技能を発揮する職場もなかったことで、田中さんの縁でわが社に入社してきたことだろう。
中村健二君は、高校時代は九人制バレーの名アタッカーとしてインターハイで優勝するなど、全国的に有名な選手であり、彼の入社は麻生のバレー部の全国連覇に大きな力となったことであった。
しかし、炭鉱の職場では、優秀な彼の才能を十分に発揮する余地はなく、私には、彼もまた戦争の犠牲者であったと思われてならない。
だが、優秀な彼のことだから、自ら有意義な人生の目標を見つけ、それに向かって努力し、達成感を抱いて旅立ったに違いないと私は信じている。

(平成二十七年十月十日)

ramtha / 2016年2月13日