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「知らざりしわが命日」

前にも記した事だが、私は昭和十八年大学在学中、いわゆる学徒出陣で西部四六部隊に入隊、翌年九月末、内地防衛部隊の一兵卒として、鹿児島県志布志湾の防衛部隊に配属された。

当初は私の所属する歩兵一八七連隊の連隊本部は、志布志中学校の校舎に駐屯し、各大隊は米軍の上陸を阻止するため、湾岸沿いの丘陵地一帯にトーチカを造成する作業に追われていた。

同年十月のレイテ沖海戦で日本連合艦隊は壊滅、米軍の沖縄上陸も間近と言う戦況であった。
十二月初め急に中学校の兵舎をたたみ、連隊本部は後ろの山間の仮谷部落に移動することになった。

一兵卒の身では戦局の様子など分からなかったが、米軍は昭和二十年四月沖縄上陸、六月下旬には完全に占領したらしいという噂を耳にした。
いよいよ米軍の志布志上陸を要撃することになるが、厚い鉄板で覆われた米軍戦車が相手では、日本軍の銃弾など跳ね返されて役に立たない。そこで兵士一人一人が爆弾を詰めた背囊を担いで、敵の戦車の下に潜り、自爆して破壊する作戦を取り、私にも自爆用の背囊が与えられた。自分にできるかどうか自信はなかったが、これなら不具になって生き残る苦しみからは逃れ得るのではと思った事は忘れられない。
幸いにして、米軍上陸の前に八月十五日の終戦を迎え今日まで生き永らえる事を得た。

今朝、毎日新聞を広げたら「志布志湾水際に残る要塞」という文字を見つけた。私にとっては終生忘れ得ぬ「志布志湾」の文字に惹かれてよく見ると「終戦なければ命日だった」と言う見出しがついている。何事ならんと読んでみる。

1945年11月1日に米軍が決行を計画していた南九州への上陸作戦を阻止するため、旧日本軍が作った要塞が使われることのないまま、今も九州南部の志布志湾(鹿児島県)沿岸に点在している。8月15日に終戦を迎えていなければ、「本土決戦」が現実のものになっていた可能性が高い。11月1日が命日になっていたかも・・・。旧軍人は、終戦によって自分たちが生き永らえたことを忘れていない。
「劣勢なのはわかっていたが、ここまで追い詰められていたとは」。1944年以降、日本軍が米軍の本土上陸を想定し、志布志湾岸に次々と作った要塞への配置を命じられた当時陸軍少尉の和田泰一さん(90)=東京都品川区=は愕然としたと言う。

米軍が上陸した場合に水陸両用戦車などを攻撃する任務を担っていた。しかし配備されたのは明治時代の旧式砲。それでも、与えられた条件でやるしかなかった。
「できるだけ米軍の上陸を阻止する」。命と引き換えになることを決意した。

志布志湾に面した鹿児島県志布志市の権現島。周囲約300メートルの小さな島に、岩石をくりぬいたトンネル状の通称「水際陣地」跡が残る。奥行き約40メートル、広さ約50平方メートル。志布志湾から上陸して来る敵兵を「水際」で防ぐため、コンクリートで補強した機関銃の台座や銃眼が設けてある。

市教育委員会によると、ここに配置する兵隊は10人程度を想定していたとみられる。食料の備蓄倉庫の広さから見て、陣地で過ごせるのは2~3日。担当者は「一度入ったら死ぬまで敵を撃ち続ける『特攻陣地』だったのでしょう」と推測する。

やはり志布志湾に面した同県肝属町の海蔵地区にある、土と雑草に覆われた2つのコンクリート製ドームは、湾内を監視する「内之浦臨時要塞」の跡だ。ドームの内部には距離を測定する機器を取り付けた支柱が今も残る。

志布志高等女学校に通っていた牧愛子さん(88)=鹿児島市=は、本土決戦に備えた竹槍訓練を思い出す。
「しょっちゅう、エイヤーってヒトを突き刺す訓練をしていました」。戦争が終わらず11月1日を迎えていたら。和田さんは「その日が命日だったかも知れない。住民も大勢犠牲になったはず」、牧さんは「米軍に竹槍で向かって行ったでしょう。そう叩き込まれていたから」と語る。(以下略)

この記事を見て、八月十五日の終戦がなければ、私もこの日が命日となっていた一人であることを初めて知った。
なお志布志湾の中央に小さな檳榔島(びろうじま)があったが、権現島と言うのがあったことも、そこに小さな要塞が作られていたことも知らなかった。

我々の部隊が志布志湾の崖上に作った無数のトーチカの後は今も雑草の生い茂る中に残っているのではあるまいか。
この記事を見て、今一度志布志の丘の上から檳榔島の浮かぶ美しい志布志湾を眺めたい思い切なるものがあるが、五体不自由の身では、残念ながら諦めざるを得ない。

(平成二十七年十一月一日)

ramtha / 2016年2月19日