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「方言周圏論」

今日は「滅びゆく日本の方言」で柳田國男の「方言周圏論」に出会った。分かりやすい解説で、言葉の伝播と方言の分布の原理が理解できた。その部分を記憶に留めるべく転記する。

方言の全国的な分布を眺めると、一地方にだけ分布すると思っていた語が、実はかけ離れた別の地方にも存在すると言う場合が少なくない。例えば、「地震」の場合、全国の大部分は「ジシン」であるが、ナイ、ナエ、ネー(古語の「なゐ」に由来)などが東日本にに点々と分布するほか、九州と沖縄に勢力を持っている。

「とんぼ」では全国に広く分布するトンボを挟んで、その両側の地域にアケズ、アッケ、アケシなど(古語の「あきづ」に由来)が分布している。このような分布形態を、方言学・言語地理学の分野で「周圏分布」または「ABA分布」と呼ぶ。そしてこの分布に着目し、解釈を与えたのが柳田國男の「方言周圏論」である。

柳田は、その著「蝸牛考」(1930年)の中で、通信調査によって収集した全国のかたつむり(蝸牛)の方言を、ナメクジ類(A)、ツブリ類(B)、カタツムリ類(C)、マイマイ類(D)、デデムシ類(E)の五類、その他に分類し、京都を中心に分布するデデムシ類を挟んで、各類の語が、A-B-C-D-E-D-C-B-Aという分布配列を形成していると判断した。

そしてこの分布は、すべての語が京都で生まれて周辺に広がり、京都では、A→B→C→D→Eの順に言葉が後退し、その都度古い語が水の波紋のように地方に広がって行った結果であると解釈した。(中略)

デデムシ(デンデンムシなどを含む)類は、近畿を中心にまとまった領域を持ち、他の地域にも散在する。この語が近畿で生まれた新しい勢力である事は疑う余地がない。柳田はデンデンが「出よ出よ」に由来するとし、各地に分布する「♪でんでんの虫、出んと尻うつきるぞ」の類のわらべ歌を傍証としている。

「♪でんでんむしむしかたつむり・・・つの出せ、やり出せ、目玉出せ」と言う童謡は、このわらべ歌をもとに作詞されたものであろう。最近の国立国語研究所の全国調査によれば、「日本言語地図」に見られるかたつむりの方言は大部分が消滅し、デンデンムシとカタツムリのみが生き残っていると言う。その背景には、この童謡の普及があるとされる。(最近の若者は、この歌を含めて伝統的な童謡の多くを知らない。滅びゆくのは方言ばかりではないようだ)

デーロ、ダイロはデンデンムシの東側に明瞭な領域を持つ。このうち、福島・新潟・栃木のものは大部分がダイロであり、長野等はデーロが多い。柳田はデーロ・ダイロをデデムシ類に含めて論じ、デーロは命令形の「出ろ」に由来するとしている。そして民衆はこの語源を意識しなかったために、デーロはダイロの訛りであると誤認し、もとの「正しい形」に戻そうとしてダイロが生まれたと推定している。この現象を柳田は「誤れる回帰」と呼んだ。

マイマイは、西日本では鳥取東部、広島と岡山の県境付近、東日本では愛知県東部付近でデンデンムシと接しており、この分布はデデムシ類が生まれる前はマイマイ類であったとする柳田の説を支えるものである。

カタツムリ類(カサツブリなどを含む)と、ツブリ類(ツムリ、ツブラなどを含む)は、各地で分布が隣接している。語形の共通性から見ても両者は発生的に相互に関係を持つに違いない。柳田はツブラ・ツブリなどの語が、巻き貝の蝸牛などを含む円形のものの呼称として存在し、カタツムリ、カサツブリなどは、それらから蝸牛を区別するために生まれた名称であると考えているようである。

「つぶら」は長野や岐阜で「子供を入れておく丸い桶」の呼称として用いられ、また、「つぶ」「たつぶ」が「田螺(たにし)」の呼称として、東北から中部地方にかけての広い地域に分布する(共通語の「つぶら【な瞳】」や「頭」の意の幼児語「おつむ」の「つむ」なども円形を意味する)

九州南部に領域を持つツグラメ、ツングラメや、岩手・宮城に見られるタマクラのクラ部分もツブラと関係がありそうである。「つぐら」は「ゆりかご」の意で、山形・新潟・長野などに、また「蛇のとぐろ」の意で長崎・鹿児島に分布し、いずれも円形のものと言う点で蝸牛の呼称と通ずる点がある。

柳田が周圏分布の最も外側にあると判定したナメクジ類は、青森・岩手と九州中央部に勢力を持つほか、各地に散在する。九州ではナメクジ類の外側にツブラメ、ツングラメがあるが、もし奄美・沖縄のツンナメ・ツダミなどをナメクジのナメに当たる形と認め得るなら、ナメクジ類が最も古いとする柳田の説を補強することになろう。

ナメクジ類が分布する地域では「かたつむり」と「なめくじ」を区別せずに、ナメクジと言っているところが多い。これは両者を区別して呼ぶ体系よりも古いと考えられる。「蝸牛」をイエショイナメクジ、「蛞蝓(なめくじ)」をイエナシナメクジ(またはハダカナメクジ)と呼ぶ地域もあるが、これもかつては両者を区別せず、ナメクジと呼んでいたことを示唆するものである。

私は大正末期、北九州で生まれ少年時代を過ごしているが、子供の頃から「蝸牛」はカタツムリ「蛞蝓」はナメクジと呼び、ここに見られるような方言があることを知らなかった。どうしてだろう。

考えてみると、その当時から北九州は八幡製鉄所・門司鉄道局・小倉造兵廠など日本の近代化を進める一大工業地帯で、全国から人が集まってきていたから、早くから共通語化されていたのかも知れない。だから昔の方言を思い起こし、生まれ故郷懐かしむという経験には恵まれていない。

小倉中学を経て旧制福岡高校に入学し、福岡での生活を始めることになった。そこで接することになった博多弁が、私にとっては青春を回想する縁(よすが)となっている。

今でこそ、テレビタレントの武田鉄矢や小松政夫の博多弁を全国各地で耳にすることができるが、テレビはもとよりラジオもNHKだけと言う当時、軽妙な博多弁は珍しく、私は毎日「博多仁輪加(にわか)」を聞いている思いがしたことであった。

その頃、東京から赴任してきたお偉いさん(名前は忘れてしまった)が、新聞のコラムに「世界一美しいアイラブユーは博多弁の『あたきゃ あーたば 好いとーとよ』である」と書いておられたのを記憶している。

グローバル化と言われる当世、交通手段は日増しに便利になり、人々の往来は激しくなるばかりで、わずかに残る方言も失われ、日本語は平板で味気ないものになって行くことだろうが、同時に庶民の暖かい人情まで無くなるとすれば哀しい限りである。

(平成二十七年十二月十八日)

ramtha / 2016年3月25日