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一、住まいとその周辺のこと

江戸時代の武士には、殿様のお国替えで、遠国に転居したり、そうでなくても、出世や格下げで、住まいが変わることもあったようだが、農民などは親の代からの家で生まれ、そこで一生を暮らし、その家で息を引き取るというのが、大半だ。たのではなかろうか。歴史上「天明の飢饉」と伝えられるような悲劇に遭遇し、心ならずも逃散して、無宿者に転落するようなことはあったとしても、それは稀れな例外であったに違いない。また江戸の裏店に住む商人や職人が、粒粒辛苦の末、表通りに店を構えるというようなことも、それは珍しい出世話であり、多くの人々は、一生同じ町内の同じ仲間と苦楽を共にする暮らしをしていたことだろう。

(註)逃散(チョウサン)=農民が領主の過酷な誅求に対する反抗手段として、他領に逃亡すること。
(註)無宿者(ムシュクもの)=無宿とは、一定の住居及び正業を持たない者を意味するが、江戸時代、人別帳から外された者を「無宿者」と言った。
(註)人別帳(ニンペツチョウ)=江戸時代の戸籍簿。当初キリシタン吟味のために設けられが、享保以後人口調査の目的で六年毎に作製・これに記載されていない者は無宿者とされた。
(註)粒粒辛苦(リュウリュウシンク)=米を作る農民の辛苦のひととおりでないこと。転じて、ある仕事の成就にこつこつと苦労を重ねて努力すること。

明治維新以降、わが国は富国強兵政策の下、急速な経済発展をしてきたが、それでも、昭和初期の人口の大半は農業従事者であったから、全国的には、まだ今日のように頻繁に転居するようなことはなかったと思われる。

しかし、私が生まれ育った北九州は、豊かなエネルギー資源である筑豊炭田を後背地に控え、八幡製鉄所・国鉄小倉機関車工場・小倉造兵廠・アサノセメント・旭ガラス・安川電機などを擁する日本の代表的工業地帯として、急速な発展をしていたので、人の流動も激しく行なわれていたようである。

我が家も、父が八幡製鉄の技師や西南女学院の教員など勤めていたから、製鉄所の官舎や学校の教員住宅など、転々と住み替えてきた。

① 八幡製鉄所の官舎

戸籍謄本を見ると、私は八幡市槻田の製鉄所官舎で出生したことになっているが、どんな構造の家であったかなど、乳幼児では知るよしもない。

次に高見町官舎に転居しているが、ここも私自身には何一つ記憶はないが、その家の庭で撮影した家族一同の写真で、二階建てモルタル造りの家であったことが窺われる。当時のことだから、写真屋を呼んで、わざわざ撮影したものに違いなく、真新しい官舎を与えられた喜びが、写真の顔に現れている。たしか大正十二年のものと思われる。

父の家族写真

しかし、その喜びも朿の間、間も無く父は八幡製鉄所を退職し、小倉の私立西南女学院の教員に転職している。その間の詳細は、幼児期にあった私の知るよしもないことであり、また何も聞かされていない。しかし、父は当時としては珍しいクリスチャンであり、かつ禁酒運動などもして居たらしい。そうしたことが、まわりの人の顰蹙(ヒンシュク)を買っていたのではと、今では推測したりしている。

いずれにしても、やがて我が家は、官舎から退去し、板櫃川の対岸、荒生田(あろうだ)に建てた自宅へと転居した。

(註)顰蹙(ヒンシュク)=不快に思って顔をしかめること。眉をひそめること。

② 荒生田の家

この家の北側には狭い庭があり、何本かの柿の木が、川沿いに枝を広げ、秋には赤い実をつけていた。南側は、農家の畑が広がり、近接する人家などはないものの、畑の向こうには、門司から折尾まで通じる電車が東西に走っていた。その電車道の向こうに藁葺土壁の小屋が見えていた。ある日の昼下がり、この小屋から出火し、黒煙をあげて激しく燃え上がった後、一瞬にして崩れ落ちる光景を目にした恐怖感は、子供心に深く刻み込まれた。

木造平屋建てのわが家は、瓦葺きではあったが、キッチン=炊事場は土間にあった。茶の間の上枢(あがりかまち)を下りると、炊事用の履物が置かれてあり、その先に一間幅ほどの土間が続いていた。それまで住んでいた官舎には、製鉄所専用の水道施設があったが、まだ一般家庭には水道は無く、この家でも生活用水は土間の片隅に掘った井戸水を利用していた。我が家にはポンプを据える資力が無かったのか。水を汲み上げる度に、投げ下ろす釣瓶が井戸底の水面を叩く音が聞こえていた。その井戸と並んで流しがあり、その先に竈(かまど)が造られていた。

(註)上枢(あがりかまち)=家の上がり口の化粧板。
(註)釣瓶(つるべ)=縄や竿などの先につけて井戸の水を汲み上げる桶。
(註)竈(かまど)=土・石・煉瓦・鉄またはコンクリートなどで築き、その上に鍋・釜などをかけ、その下で火を焚き、煮炊きするようにした設備。「くど」・「へっつい」とも言う。

幼児期の記憶で定かではないが、この家には六畳ほどの畳の部屋が四つほどあったと思う。両親と子供五人が住んで居たわけだが、箪笥・茶箪笥・食卓・火鉢のほかには家具らしきものも無かった当時としては、広さに不足はなかったことと思われる。

前述したように、この家からほど遠からぬところに、電車線路が通っており、我が家の右前方に荒生田の電停があった。その電停から板櫃川に架かる橋を渡って北へ伸びる大通りがあり、その先の左手に製鉄所の職工官舎、右手に判任官官舎、そして左手奧に高等官官舎が立ち並んでいた。高等官官舎は、一戸ごとに生け垣に囲まれ、外からは窺えぬものの、なかなかの構えの住居であったようである。他方、職工官舎は一棟に六~七軒が並ぶ長屋が狭い路地を挟んで、幾棟も密集していた。

(註)判任官(ハンニンカン)=明治憲法下、官吏の最下級。身分上、勅任官・奏任官の下にあり、本属長官がその任命を専行し得たもの。
(註)高等官(コウトウカン)=旧制の官吏等級ので親任官のほか、九等に分かち、親任官及び一、二等官を勅任官、三等以下を奏任官とした。

それらの官舎に取り囲まれる形で、大通りの交差点が広場になっていた。自動車など滅多に見かけぬその頃は、こうした広場はたいてい子供達の遊び場となっていた。
我が家から近く、官舎の子供に友達も居ることで、よくその広場に行って遊んだことである。

その広場には、また、しばしば安物の茶碗やタワシなどの日用雑貨を売る露天商が店をひろげたり、子供相手の紙芝居やガマの油売りなどの大道香具師や、ときには支那手品などがやってきたりした。

(註)香具師(やし)=縁日・祭礼などの人出の多いところで見世物などを興行し、また粗製の商品を売ることを業とするもの。野師・弥四とも書き、的屋(テキや)とも言う。

紙芝居にも心を惹かれたが、なかでも支那手品の玄妙さには、何度見ても心を奪われたことであった。
ちゃんちゃん帽子にどじょう髭をはやし、ダブダブの支那服を着た男が、赤い布を被せた台を路上に据えて、口上を述べ始める。

(註)ちゃんちゃん帽子=中国人の辮髪(ベンパツ)を「ちゃんちゃん」と言い、その頭に被るベレー帽のような、円くて平らな縁なしの帽子をそう呼んで居た。
(註)辮髪(ベンパツ)=男子の頭髪を編んで、長く後へ垂れたもの。古くからアジア北方民族の習俗で、満州人が清朝を創始するに及び、中国人一般に強制した。

「フシギナフシギナ支那手品アルヨ。。ミンナ見ルヨロシ。種モ仕掛ケモナイ、フシギナ手品。ミンナミンナ良ク見ルアルヨ。」

広場で遊んでいる子供はもとより、道行く職工さんやおかみさん連中、赤ん坊をおんぶした子守娘、自転車を押しているご用聞き途中の小僧さん等、ぞろぞろ集まって来て周りを取り巻くと、手品師は、提げて来たトランクの中から、お椀を三つ取り出して台の上に伏せる。
「コノトーリ種モ仕掛ケモ無イアルヨ。」
と言いながら、お椀を一つづつ取り上げて、内側を見物人の方に示す。次に
「ヨロシアルネ、サア、コノ中ニオ金入レルヨ。イイアルナ。」
と言いながら。その一つに一銭硬貨を入れてお椀をふせる。さらに、伏せてある三つのお椀の内、今硬貨を入れたお椀だけ、もう一度開けて見せ、
「ココニ一銭アルネ。良Iク覚エルヨロシ。」
と言ってふせ
「サア、良ク見ルネ、良ク見ルネ。」
と言いつつ、三つのお椀をふせたまま、台の上をすらせながら右に左に二、三度入れ替える。
「サア、オ金トコニアル。アテルヨロシネ。アテタ人オ金アゲルネ。オ客サンアタラナカッタラ、ワタシオ金イタタクネ。サアサア、ミンナミンナアテルヨロシネ。」
と叫ぶ。

見物人の中からお金を出して試みる者が出るが、絶対に当たらない。立ち並ぶ大人の足の間から、頭だけ出して覗いている私も、そのお客の指さすお椀の中に、確かに硬貨が入っている筈だと思うのに、
「残念アルネ、コレニオ金無イアルネ。」
と言いながら、手品師が開けて見せるそのお椀の中には何も無く、次に開けて見せる隣のお椀の中に、先程の一銭硬貨は入っている。
「モウー度ヤルネ。今度良-ク見ルヨロシネ。」
と手品師は二度も三度も試み、見物客も入れ替わり立ち代わり挑戦するが、当たることはない。

やがてお客が少し飽き始めると、手品師は別の手品を披露したり、連れている女の子にトンボ返りなどの曲芸をやらせて、見物人から投銭を集めて暫く時間を稼ぐ。

まわりの見物人が、その間に次第に入れ替わり、あらかた変わってしまった頃、また初めの手品から繰り返す。

見物の大人達は、次々に集まって来ては、立去って行くが、手品の不思議さに魅入られた私は、そこにしゃがんだまま動かない。やがて広場に漂い始める黄昏(たそがれ)の冷気にハッと気がつき、あわてて我が家に帰り、母にひどく叱られたことも何度かあった。

その頃は、日本中がまだ貧しく、大人達はみんな「坂の上の雲」を目指して必死に働いていたのだろうが、荒生田での暮らしは、私にとって、今も忘れ難い昭和の風景の一齣(ひとこま)である。

少子化は日本の現状を表現する言葉として毎日のように耳にするし、女性一人が生涯に出産する子供の数が著しく減少したなどと言うニュースも、しばしば伝えられている。しかし、私たちが育った昭和初期は、どの家庭にも五、六人の子供が居るというのが普通で、三人年子も珍しくないほど、当時の女性は多くの子供を出産したものである。だが栄養も十分とは言いがたく、衛生環境も悪く、医術も未熟、医療設備も乏しかったその時代の日本は、今日のアフリカ諸国と同様に、幼児の死亡もまた少なくなかった。

(註)年子(としご)いU年毎に続いて生まれた同腹の子。一つ違いの兄弟。三人年子は、三年続けて毎年生まれた同腹の子のこと。

私には五人の兄弟姉妹が居たが、姉二人と妹一人は幼児期に病死している。抗生物質なども無い時代、為す術もなく、疫痢などで急死したと聞いている。両親の嘆きもさることながら、次々と襲いかかる子供の病気に、健康保険制度も無い時代、その経済的負担は如何ぽかりであったろうか、察しても余りある。

(註)疫痢(エキリ)=子供のかかる急性伝染病。激烈な中毒症状、粘液下痢、を主症とし、高熱・痙攣・嘔吐・昏睡などを起こす。

③ 西原町の借家

そうした事情が、両親に折角手に入れたマイホームを手放す決意をさせたのだろう。間も無く、我が家は小倉市西原町の借家へ転居している。
木肌も新しく、南向きの明るかった今までの家と異なり、この借家は古家で、軒も低かったのか日当たりも悪く、暗い印象が残っている。近くに小倉工業学校があり、生け垣に囲まれた家が何軒か、隣近所にあったので、にぎやかな街中というのではないが、子供の声なども聞こえてくるような住宅地に、この家はあった。

この家には五十坪ばかりの前庭があり、野菜畑となっていたところを見ると、もともとは農家として造られたものかも知れない。正面の入り口を入ると、一間幅ほどの土間が真っ直ぐ裏口へと続いていた。裏口を出るとすぐのとごろに井戸があったようだが、ここもポンプは無く、釣瓶で水を汲み上げていたのではなかったか。そのあたりの記憶は定かでない。

昭和初期、母方の親戚が大分県臼杵市で歯科医を開業していた。母に連れられて何度か訪れたことがあるが、その家は二階造りの櫓門を構えた大きな屋敷であった。

門から飛び石伝いに母屋に至り、正面の引き戸を開けると、真っ直ぐ進む土間があり、すぐ左手の上がり根から、診療室へ上がる仕組みとなっていた。しかし土間は、途中に居室部分と区切る格子戸があるものの、真っ直ぐ裏口へ向かって続いていた。これからすると、玄関に式台を備えた邸宅は別として、昔の民家は、農家でなくても、入り口から裏口へ土間の続く構造が一般的であったのかも知れない。

(註)式台(シキダイ)=玄関先に設けた一段低い板敷き。客を送迎して礼をするところ。

西原町のこの家は、土間の右手に上がり框があり、近隣の主婦など訪ねてきては、そこに腰掛け長々とお喋りをしていた姿が思い出される。また日常、素足に下駄や草履を履いて暮らしていた私たちは、上がり框に置かれている雑巾で、その都度足を拭いて、畳の間へ上がっていたことである。

④ 下到津(しもいとうづ)の借家

西原町の借家には一年余りも住んで居ただろうか、間も無く我が家は下到津の借家に転居した。

今度の家は、小倉から八幡に向かう電車通りを、到津の電停前で右に分かれ、板櫃川を渡り、その先は西南女学院の下を通って、峠越しに戸畑に通じる往還に面した家並みの中にあった。

(註)往還(オウカン)=広辞苑でも漢和辞典でも、往還は人の行き来する道。往来。と説明されている。しかし、私の個人的思い込みによるのかも知れないが、往来(オウライ)は、交通量の多い街中の道路を意味し、往還(オウカン)は、一つの街と隣の街を結ぶ郊外を走る道路を指していたように記憶している。

この家は、西原町の借家と、部屋数も広さもさして変わらなかったと思うが、道路より少し低いところに建っていて、庭もほとんど無いような家であった。そんな家にどうして移ったのか、その間の事情はよく分からない。

八幡から西原町へ転宅したとき、姉は近くの板櫃小学校に転校したが、兄は戸畑の私立明治小学校へ転校し、山越しに五キロ以上もある道を通学していたから、或いは少しでも近くにと言うことであ。たのかも知れない。

門司、小倉方面から西南女学院へ通う生徒等にとっては、我が家の前のその往還が唯一の通学路となっていたので、朝夕、女学生が列をなして賑やかにこの道を通って行った。

またこの往還は、小倉と戸畑を結ぶ数少ない道路の一つでもあったから、その頃としては随分交通量の多い道路であった。と言っても、今のように乗用車やトラックが地響きをたてて通るなどということはなかったが、荷馬車や大八車、時には自転車の後ろにつけたリヤカーなどが、砂埃をたてて通り過ぎて行った。

磐台を天秤棒の両端に提げ、「鰯こー、いわし」と威勢のいい売り声をあげる魚屋は、電車通りの方から、大根や野菜を積んだ大八車を引っ張るお百姓さんは、坂の上の方からやって来た。

時には、「鍋釜の修繕はありませんかー」と怒鳴って歩く鋳掛け屋が、路傍で鞴(ふいご)を押して火を起こす姿や、細く裂いた長い竹を右に左に振り回しながら、路上に座り込んで、桶や盥(たらい)の箍(たが)直しをする箍屋の爺さんも見られた。

(註)大八車(ダイハチくるま)=荷物運搬用の大きな二輪車。八人分の仕事の代わりをする意から代八車とも書かれたと言う。
(註)磐台(バンダイ)=魚屋が用いる、浅くて大きい楕円形の盥(たらい)。
(註)天秤棒(テンビンボウ)=両端に荷をかけ中央を肩に当ててになう棒。
(註)鋳掛(いかけ)=鍋・釜など銅・鉄器の漏れを止めるため「白目」などを溶かしこんで穴を塞ぐこと。なお、白目・白鑞(しろめ)は、アンチモンを主成分とし砒素を含む鉱物。合金の中に混ぜて溶融しやすくするために用いる。
(註)鞴(ふいご)=金属の精錬に用いる送風機。把手を手で押し、または引いて、長方形の箱の内に気密に取り付けたピストンを進退させて風を押し出すわが国固有のものと、風琴に似た構造をもち、足で踏むものとがある。
(註)箍(たが)=竹を割ってたがねた輪。桶・樽その他の器具などにはめて、外側を堅く締め固めるのに用いる。また銅・鉄をも用いる。なお、「たがねる」は、ひとまとめにする、朿にすること。

我が家の前の往還の向こう側は、当時は田圃で稲や麦が作られていたが、その後数年も経ぬ間に造成され、サラリーマンが住むような家が立ち並ぶ住宅地となってしまった。

⑤ 西南女学院の教員住宅

下到津の家に住んだのは、わずかな間で、我が家は西南女学院の構内に新しく建てられた教員住宅へ入居することとなった。

西南女学院の正門から丘の上の校舎へと通じる坂道の脇にこの家はあったが、木造の平屋で外壁はモルタル仕上げとなっていた。家の裏手はちょっとした崖になっていて、その下に小倉から戸畑への往還が通っていた。

玄関はガラスの引き戸を開けて入ると、三畳ほどの三和土(たたき)があり、左手の壁ぎわに小さな下駄箱が置いてあった。

(註)三和土(たたき)H石灰・赤土・砂利などに苦塩(にがり)を混ぜ水を加えて練り固め、土間などに塗って叩き固めること。また、そのものを言う。

玄関の上がり框(かまち)の先は四畳半の板の間で、正面にオルガンが据えられていた。独身時代、小学校の教員をしていた母が、我が子の音感教育のために買い備えたに違いない。私も小学生の頃、片手弾きながら、小学校唱歌のいくつかを弾いてみたことはあったが、残念ながら、母の期待に反し、私の兄弟からは、一人として音楽を得意とするような者は育っていない。

下到津の借家も井戸から水を汲んでいたようだが、今度の家は、学院の構内全域に配水する専用水道があり、炊事も風呂も蛇口の栓をひねるだけで、用を足すことができた。ただ一度だけ寒い冬の朝、水道が凍結して、困惑したことがあった。その後、水道管の地上に露出した部分に、藁縄を巻き付ける作業をしているのが見られた。

台所も茶の間と同じレベルの板敷きとなっており、今までのように、鍋釜などを持って土間から床上へと段差を上下する苦労もなくなった。しかし、竈(かまど)も台所の片隅に築かれていたから、土聞にあった時と異なり、格別大きな炭壷を用意するなど、残り火の始末に今まで以上に気を遣うこととなったようだ。

(註)炭壷(すみつぼ)=熾火(おこりび)を中に入れ、蓋をして空気を絶ちこれを消すための壷。火消し壷とも言う。なお、この壷の中で消された炭を消炭(けしずみ)というが、軟らかく火がつきやすいので、急いで火をおこすときに使われる。スイッチをひねるだけで、点火できる電熱器やガス器具の無かった時代は、夜中に火をおこさねばならない時など、ずいぷんと重宝されたものである。

この家の間取りは、六畳の茶の間を中心に、東側に廊下伝いに右手は六畳の座敷、左手は浴室へと通じていた。

座敷の南側には半間幅の廊下があり、廊下の突き当たりには、読書が唯一の趣味であった父の本棚が置かれていた。日の当るその廊下で、籐椅子に腰掛け、本を広げていた父の姿が、今も思い出される。

茶の間の西側には六畳の間が二つ並び、その南寄りの一室には、南向きに出窓があり、その窓に向かって私たち子供の勉強机が置かれていた。勿論当時のことだから、座り机である。試験前など珍しく座り続けると、足が痺(しび)れ、夏の夜は蚊に、冬は霜焼けに悩まされたことである。

その頃は両親と姉・兄と私の五人家族で、時には母の従兄弟が長逗留することもあったが、収納も間口二間の押入二つに過ぎないこの家で、別段手狭とも感じなかったのは、家電用品なども無い時代であったからだろう。

学院の構内には、院長はじめ教職員の住宅が五軒ほどあったが、それらは学院敷地の周辺部に点在していた。アメリカ人の院長一家の住む家は、校舎・寄宿舎・体育館など全域を見渡せる丘の上にあった。それは子供の目にも堂々たる二階建ての洋館であった。

院長の家には私と同年の女の子が居た。近くに幼児が居なかったこともあって、私はメリーちゃんと言うこの子の遊び相手をさせられた。彼女は日本生まれで、両親より日本語が堪能であったから、遊ぶのに不便はなかった。何をして遊んでいたかは、忘れてしまったが、毎日のようにお互いの家を行き来していた。

初めて彼女の家に連れて行かれた時、彼女ら親子が靴を履いたまま、づかづかと家の中に入って行ったのにはびっくりした。

洋館だから、床は日本家屋のように高くはないが、日頃の習慣からズックのまま上がるのはためらわれる。しかし、彼女は私の手を引いて部屋の中へと連れて行く。

入り口に置かれた靴拭いで、一応は靴底の汚れを拭う仕種(しぐさ)はしたものの、粗末なズックで豪華な絨緞(ジュウタン)の上を歩き回るのは、気が引ける。

次は椅子に腰掛け、テーブルで食事となったが、慣れないナイフとフォークでは、最後まで落ち着かず味も分からぬまま、「ご馳走様」と言い忘れぬようにするのが精一杯であった。

今考えてみると、校舎の入り口には、下足棚があり、それには通学路で履く革靴と校舎内用のズックが並んでいた。多分、教職員も生徒も入り口で上履き靴と履き替えていたのだろう。その後私が通学した明治小学校も小倉中学も、靴を脱いで校舎に入っていたことと比べると、西南女学院は私立のミッションスクールで、生徒は比較的裕福な家庭に恵まれていたのだろう。

メリーちゃんの父親は、まだそれほどの年ではなかったはずだが、軽井沢だったか、避暑先で急死し、間も無く彼女は母親とアメリカへ帰国して行った。

後年、米国視察の機会が与えられた時、出来れば再会したいものと思ったが、彼女の消息を知ることは出来なかった。私と同年なのだから、今もアメリカのどこかで、幸せな老後を過ごしているのではなかろうか。

私はこの家から戸畑の明治小学校へ六年間、小倉中学へ四年間通学した。と言っても、病弱な私は小学校四年の一年間と中学二年の大半を肺結核で休むなど、自宅で病床に臥していることが多かった。

静養以外にさしたる治療法も無い療養生括は退屈との戦いである。テレビはもとよりラジオもNHKの短時間放送しかなく、子供向けの雑誌も少年(または少女)倶楽部だけという当時、毎日の新聞の記事はもとより、大人向けの「雪之丞変化」や「逢魔の辻」などの連載小説から広告の隅々まで眺め、なお余った時間は、教科書をひろげて過ごすほかは無かった。

だから、長休みした割りには、国語や算数での勉強の遅れはそれほどでもなかった。しかし、実験を伴う理科や、実技を主とする図画・工作などは、本来の無器用もあって、最も不得手な学科となった。また、中学では発音練習を必要とする英語も嫌いなものの一つとなってしまった。

風邪や下痢はしょっちゅうのこと、結核・肺炎・盲腸炎・麻疹(はしか)・ジフテリア・赤痢・・・と数え切れないほどの病気を経験した。そんな私でも、年を重ねるとともに、少しずつ体力が増して来たのか、それとも、もう患うべき病が無くなったのか、中学四年生の一年間は、一日も休むことなく、初めて皆勤賞というものを手にした。

昭和十四年、旧制福岡高校を受験した。昭和六年の柳条溝事件に始まる日中紛争が次第に戦線を拡大して行くにつれ、世の中は戦時色が強まり、それまでは学科試験だけであった高校入試にも、その年から健康診断が行なわれるようになった。

一次の学科試験はパスしたものの、二次の健康診断の結果、数人の受験生とともに、翌日の精密検査を受けるようにと指示された。かねて危倶していたことではあったが、その時は目の前が真暗になった。しかし、この時は、かつて結核の治療をして頂いた宮下医師から「既往症の痕跡はあるものの、現在の健康には異状は無い。」旨の証明書を頂くなどして、なんとか合格することが出来た。

紆余曲折はあったものの、これで福岡高校へ入学、この家と別れ、親もとを離れて、私は新しい暮らしへと旅立った。昭和十四年の春であった。
平成三年、大分県臼杵市に住む兄が、久しぶりにやって来た。お互い北九州を離れて半世紀ほどにもなる。

二人の年を考えれば、これが最後の機会となるかも知れないと言う思いから二人が通学した明治小学校(現在は別の学校法人明治学園となっているが)と、少年期を過ごした西南女学院の教員住宅を訪ねてみた。

明治学園の方はすっかり模様が変わり、私たちの通学路の一部であった並木道のほかは、何一つ昔を偲ぶよすがは残っていなかった。いささか失望しながらも、タクシーで西南女学院へ来てみると、かっては雑木が疎らに生えていただけの丘に、近代的な住宅が立ち並ぶなど、こちらも周辺の風景はすっかり変わっていた。

しかし、昔の正門から坂道を僅かに上ったところに、あの家はまさに昔のままの姿で立っているではないか。六十余年の風雪に耐え、さすがに古色蒼然とはしているものの、私たちが想像していたより、はるかに毅然とした姿勢を保っている。

「おい、元気か?」と声をかければ、「お前達こそ大分くたびれて見えるぞ。ここで兄弟喧嘩をしとった時の元気はどうした。もちょっと、しゃんとせい。」と言う応えが返ってくる気がする。

人影は見かけなかったが、軒下に干し物が下がっているところを見ると、この家は今なお現役としてその務めを果たしているようである。それは、これまで住んでこられた方々が大事にされた心遣いもあったことだろが、何よりも、この家を手掛けた当時の大工さん逹の誠実な仕事のおかげに違いない。

私は昭和五十年に、わずかな貯えをはたいて、ようやく横浜でささやかな建て売り住宅を手に入れた。同時に入居した周辺の人達は、その後、ライフスタイルの変化にあわせて、十年前後でみなさん立て替えられてしまったが、私たち一家は不便を忍んでそのまま住み続け、こちらに移るとき次男にゆずって来た。しかし家の老朽が甚だしく、まだ築後二十年ばかりというのに、次男は間も無く立て替えを余儀なくされたものである。

それを思い合わせると、建築基準法なども無かった昭和初期に、無名の大工さんが建てたに違い無い木造モルタル仕上げのこの家が、七十年もの寿命を保ち、なお生き続けているのには、深く感動し、しばしそこに立ち尽したことであった。

平成十七年には、姉歯建築士による耐震構造偽装事件が発覚、建物の安全性について日本中を不安に陥れる大騒ぎとなっている。昭和初期には無かった建築機械や技術が開発され、今日素晴らしい進歩を遂げて居ることは間違いないが、昔の職人が頑なに守り続けていた誇りや心意気はどうなったのだろうと、今にして思われる。

なお、風の便りで耳にしたところでは、この家は、平成十年過ぎに、寿命を全うし、取り壊されたと言う。

ramtha / 2016年5月30日