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三、家具・生活用具など(① 炊事用具など) 

もともと、人間は環境に順応するように出来ているのだろう。テレビや冷蔵庫のような家庭用電気器具でも、初めて手に入れた時は珍しく、その機能の素晴らしさ、便利さに感動しても、毎日使用しているうちに、そこに在るのが当たり前になり、やがては故障でもしない限りは、気にもならなくなってしまう。

そんなことで、現在自分の身の回りにある諸々の物が何時からそこに置かれるようになったか、考えてみることもなく、もうずっと昔から在り、使用して来たような気持ちで暮らしている。

しかし、今回、昭和初期からの暮らしの変遷について書き留める作業にかかって、あらためて身の回りを見渡して見ると、現在使用している家具や日用品の大半が、私の子供の頃には、無かったものであることを思い知らされた。それとともに、かつては、毎日のように使い、慣れ親しんで来たもので、何時の間にか目の前から姿を消し、すっかり忘れてしまっていたものも、少なくない。
今回はそうしたものについて、記すことにする。

① 炊事用具など

今日、ご飯は電気釜かガスレンジで炊くのが一般的だが、昔は、どの家にも竈(かまど・くど)があり、これに釜をかけ、薪(たきぎ・まき)をくべて炊いたものだ、炊き上がったご飯は、釜からお櫃(ヒツ)に移して食卓まで運んだ。お櫃には、保温機能は無いから、寒い時は、藁(わら)で作られた桶のような器具(室櫃=ムロビツと言ったような気もするが。忘れてしまい自信はない)にお櫃を入れて居た。

また暑い季節には、ご飯が腐らないように、竹で編んだ手提げ付のザルに移して、それを風通しの良い高いところに吊り下げて居た。

終戦直後しばらく、世界の貧困な国ヘアメリカから所謂ガリオア・エロア援助が行なわれた時期があった。

わが国も長年の戦争で国土は荒廃し、極度の食料不足に陥っていたが、この援助で、アメリカ産の小麦を大量に与えられ急場を凌ぐことが出来た。戦勝国が敗戦国の窮状を援助するなど、それまでに無かったことで、多くの日本人はアメリカに感謝し、昨日まで戦ってきたアメリカに対して、親近感情を持つようにな。たことは確かなことである。

(註)ガリオアー占領地救済資金。第二次大戦後アメリカ軍占領地の疾病や飢餓による社会不安を防止し、占領行政の円滑を図るためアメリカ政府が支出した援助資金。
(註)エロア=占領地経済復興援助費。第二次大戦後占領地の経済自立を助ける目的でアメリカ政府が支出したもの。

その頃から、米ばかり食べていると頭が悪くなるとか、米を主食にしていたから戦争に負けたんだ、などと言う話を聞かされ、パン食が奨励された時期があったと記憶している。米食が健康食として見直されている今日からすれば。まことに荒唐無稽な話であるにも拘らず、その効果はなかなかのもので、パン食生活に切り替えた日本人も少なからずあったのではないかと思う。

学校給食にもパンが多く取り入れられたのも、給食現場での便利さもさることながら、こうした思潮が底流にあったのではないだろうか。

(註)荒唐無稽(コウトウムケイ)りとりとめがなく考えに很拠のないこと。でたらめ。

日本人の米食離れが急速に進み、その結果、減反につぐ減反で、少なからぬ農地が荒廃してしまったが、今日になって考えると、自国産小麦の消費拡大が真の狙いであることも知らず、アメリカのお為ごかしに、お人好しの日本人が踊らされただけのことではなかったのかと、思われてならない。

いずれにしても、敗戦後、朝食はパンでという家庭も多くなり、ほとんどの家庭で卜-スターが見られるようになった。
昔もパンを食べることはあ。たが、レストランでの洋食などのほかは、間食に餡パンやクリームパンを与えられる程度であったから、一般家庭でトースターを見たことはなかった。たまに自宅で食パンを焼いて食べることもあったが、七厘に金網を載せ、その上で焼いていたから、トーストの焦げ目に金網の形がついていた。今どきのトースターは、タイマーつきで、好みの時間にセットしておけば、焼き上がったら自勤的にトーストが飛び出す仕組みになっているが、私が初めて手に入れた卜-スターは、未だタイマーが無く、焼け具合を見計らって取り出すタイプのもののようであった。

戦前も勿論、食パンは売られてはいたが、今のようにスライスされてなく、自分で適当な厚さに切らねばならない厄介な代物であった。だから軟らかい食パンを切り分ける専用のナイフを必要とした。食パンがスライスされて売られるようになったのは、戦後のことには違いないが、それが何時頃のことだったか覚えていない。

私が通った小倉中学では昼食時、街のパン屋が毎日出張販売をしていた。上級生の中には持参の弁当は午前中の休み時間に食べてしまい、昼食時にはそのパン屋から餡パンなど買って食べているものも居たようだ。

炊飯のことから脱線して、パン食の話に深入りしてしまったが、ここで煮炊きの話に戻る。

昔の農家などでは、居間の中央に囲炉裏が設けられており、煮炊きも囲炉裏の自在鈎(ジザイかぎ)に鍋などを掛けてすることもあったようである。今ではレトロ志向で、観光地のホテルや民宿などでも、見かけるようになった囲炉裏だが、昭和初期の町屋では見た記憶は無く、ご飯は竈で炊き、その他の煮炊きには、七輪(シチリン)で、薪や木炭・コークス・豆炭・炭団・煉炭などを燃やしていた。しかし、七輪の燻(くすぶ)る煙にむせて咳き込むなど、ずいぶん悩まされたものである。

吉隈炭坑(嘉穂郡桂川町)の社宅に住んで居た頃は、夕食時ともなると、無数の社宅の七輪から立ち上る煙が、そこら一面に棚引いていた。その煙で喘息気味になる人も居たが、当時は当たり前の風景として別段気にもしなかった。だが、今なら忽ち公害問題として騒がれるに違いない。

(註)自在鈎(ジザイかぎ)=炉・竈などの上に、上から吊るし、自在に鉄瓶・鍋・釜などを上下させる装置。
(註)七輪・七厘(シチリン)=焜炉(コンロ)の一つ。多くは土製、物を煮るのに価七厘の炭で足りる意味から名付けられたと言う。
(註)コークス=石炭を乾留して揮発分を除いた含炭素の帯灰黒色、金属性光沢のある多孔性で点火しにくいが、火をつければ無煙燃焼し、火力が強い。
(註)豆炭(まめタン)=家庭用燃料の一つ。石炭・無煙炭・木炭・亜炭・コーライトなどの粉末をまぜ、粘着剤で卵形に固め乾燥したもの。
(註)炭団(たどん)=木炭・石炭の粉末にふのりなどをまぜ、球状に固めて乾した燃料。
(註)煉炭(レンタン)=石炭・コークス・木炭などの粉末に粘着剤をまぜて強く押し固めた燃料。円筒形で、燃焼をよくするため、縦に数個の穴を通してある。

今日どこの家庭でも利用している電子レンジなどと言う文明の利器が無かった昔は、何かの都合で食事時に遅れると、ご飯も、煮魚や煮染めなどのおかずも、冷めてしまったものを、一人侘しく食べるほかはなかった。
暖かくして食べたいと思えば、火鉢や七輪の中に火が残っている場合は、それで温め直すことも出来るが、そうでなければ、改めて火を熾(おこ)すことから始めなければらない。

その頃の主婦は、亭主が残業で夜遅く帰宅した時などは、せめて暖かい夕食をと、冷たい夜風の吹く背戸(せど)で、七輪の焚き口を団扇で忙しく扇ぎ、あただに火を熾(おこ)す苦労をしていたものである。

そんな苦労をして生涯を過ごした当時の主婦が、今の世に現れて、今日の若い母親が、勤め先から帰宅すると、先ず、買い溜めして置いたレトルト食品を冷蔵庫から取り出し、電子レンジでチンして、アッと言う聞に食卓に並べる有り様を見たら驚くことは間違いないが、それを食べさせたら、どう思うだろう。こんな便利な時代に生まれ合せたかったと言うだろうか、それともこんな味気ないものは、自分の家族には食べさせられないと思うのだろうか。出来ることなら聞いてみたいものである。

(註)背戸(せど)=家のうしろ。裏口。

麻生本社に勤務していた昭和二十七年頃、同じ職場の先輩に内村さんという方が居られた。綺麗な字を書き、算盤も達者な優秀な方で、謹厳実直な人柄であった。テレビもまだ無く、マイカーなど夢のまた夢という時代、多くの庶民がパチンコを楽しんでいた。私も人に誘われるなどして何度か遊んだことがあるが、たまに賞品を手にすることはあっても、たいていは、なけなしの小遣を失うのがオチであった。

謹厳な内村さんも、たまにはパチンコ店を覗いたりしておられたようである。ある日内村さんと二人で帰宅途中、駅前のパチンコ屋に、どちらが誘うともなく入った。私は半世紀も遠ざかっているので、今日のパチンコが、どのような変化を遂げているか分からないが、当時は、確か百円で二十個の玉を買い、無くなれば、そこで諦めて店を出るか、また買い足し、運良く出玉が溜まり賞品と交換すれば、目出度し目出度しであった。

この日は勝ったり負けたり一進一退で、二人ともなかなか踏ん切りがつかず、ずるずると続け、とうとう閉店を告げる「蛍の光」を聞いた時は、手に残る玉は無く、疲労感だけを背負って、遅いご帰館となった。

夕飯を温めて待っている家内に、パチンコで遅くなったとも言い辛い。あたかも残業で疲れ果てたかのような素振りで、黙々と食事をし、早々に寝床にもぐり込んだ。

翌日、その心境を内村さんに話したら、
「いやー、私も全く同じで、家内にお疲れでしようとと言われたときは、内心、針の蓆(むしろ)に座らせられた思いでした。それでも、仕事で疲れたふりをして居たのですが、悪いことは出来ませんね。今朝、玄関で靴を履こうとしたら、ズボンの裾の折り返しからポロっとパチンコの玉が一つ落ちて、昨夜の嘘がばれてしまい、往生しました。」
と言われ、同病相哀れむ思いをしたことであった。

余談になるが、パチンコは戦前からあるのはあったが、当時のパチンコ店は、数台の機械を置く小さな店で、歓楽街の片隅にあり、客もまばらなように見受けられた。

私は高校生のとき、博多中州の飲み屋街の片隅にあるパンコ店を覗いたことがある。その頃のパチンコ機械は甚だ原始的なもので、台の表面には無数の釘に囲まれて、当たり玉の入る穴数個と外れ玉の落ち込む穴が一個があるだけで、戦後の機械に取り付けられた風車などは無かった。台の外枠に硬貨が入る細い穴があって、ここに一銭硬貨を入れると、台の中に玉が一つ出てくる。この玉を弾いて外れれば、もう一つ玉が出てくる。これも外れれば終わり。つまり一銭で玉を二つ買って遊ぶ仕組みになっていた。当たり穴に入いれば、中央下の皿に、チャランチャランと一銭硬貨と同形の金属片が二枚出てくる。これを使って遊び続け、手持ちの金属片が無くなれば終わり、運良く手持ちの金属片が増えて、幾つだったか忘れてしまったが、ある程度溜まれば、煙草一箱と交換してくれていた。

戦後のパチンコのように当たれば、チンジャラジャラと派手な音を立てて玉が出てくるようなことはなく、まことに静かなもので、運良く当たり、金属片が二枚、受け皿に落ち込むテャランチャランと鳴る音は、周りの居酒屋などの賑やかさとは対照的な、そこはかとない哀愁感を帯びていた。

今では、たいていの家庭に、俗にジャーと呼ばれている魔法瓶や電気ポットがあり、四六時中温かい湯が常備されている。しかし、そうした便利な器具の無かった時代は、夜中に赤ん坊が目を覚まし空腹を訴えて泣き出すと、母乳が無ければ、粉ミルクを溶いて与えなければならないが、粉ミルクを即座に溶かすお湯が無い。だから先ず七輪に火を熾(おこ)し、それから湯を沸かすことになる。ずいぶん手間のかかることで、待ちきれない赤ん坊は人声で泣き続ける。母親は隣近所への迷惑を気遣い、片手で赤子をあやしながら、片手でミルクを作る作業をしなければならないこととなる。

魔法瓶の原理は中学の物理で習ったが、我が家にはまだ無かった。多分庶民には高価なものだったのだろう。

昭和二十四年、吉隈炭坑の社宅に住んでいた時、長女が産まれた。しばしば夜泣きする子ではあったが、幸いにして母乳に不足することはなかった。だから魔法瓶は持っていなかったが、火を熾しミルクを作る苦労はしなくてすんだ。しかし、長泣きする子で、これには手を焼いた。仕方なく私が抱いて、寝つくまで、山神社のあたりを、あやしながら歩き回ったことも幾度かあった。

コンビニやほっか弁など無かった当時、家内がお産で里帰りしている間などは、無精者の私でも、最小限の炊事はせざるを得ない。食事の準備も煩わしいことであったが、後始末は考えただけで気が重くなる。殊に冬の冷たい水で食器を洗うのは気が進まない。

朝食の後などは、出勤の時刻を口実に、汚した食器を流しの洗い桶に突っ込んだまま放置する。しかし家を留守にしている間にバ食器が綺麗になるわけはなく、夕食後は、朝の分と一緒に洗わねばならないことになる。嫌だ嫌だと思うほど、水の冷たさが身に染みたことである。

最近は、家族それぞれの生活リズムが異なり、朝は私が最後に一人で食事をすることが多く、自分が使った食器は自分で洗うこともあるが、瞬間湯沸器のおかげで、寒い冬の朝でも少しも苦にならない。
こんな便利な物が何時出来たのだろう。私は子供の頃耳にした「男子厨房に入る可からず」を盾にして、長年炊事をせずに過ごして来たので分からない。家内のうろ覚えでは、昭和三十年代半ばには一般に使われていたのではと言うが、どうだろう。

昨年、瞬間湯沸器のガス漏れによる死亡事故のニュースを耳にした。まだ若い学生さんが亡くなったとか。親御さんの嘆きも如何ばかりかと、胸の痛む思いをしたことであった。それとともに、瞬間湯沸器に限らず、こうした文明の利器は、メリットとリスクはつきもので、諸刃の剣であることを、改めて思い知らされたことである。

食器洗いといえば、陸軍の初年兵時代、ずいぶん辛い思いをさせられたものである。軍隊では、各内務班の初年兵五~六名を一組に、炊事当番が編成される。当番は食事の度に、週番上等兵の指揮の下、部隊の炊事室から主食・副食を内務班まで運び、各人の食器に分配する。

食後は全員の食器を、洗い場に運んで洗わねばならない。私は十二月一日に入隊したので、真冬にこれをやらされた。娑婆(シヤバ)であれば、束子(たわし)などを使って湯で洗うことも出来るが、軍隊ではそれは許されない。ニュームの食器についた脂などなかなかおちるものではない。仕方がないので、そのあたりに落ちている藁などでごしごし力任せに洗うほかはない。

洗い終わると、食器を入れたザルごと、炊事の脇にある熱湯の桶に入れて消毒する。水で冷えきった手をいきなり熱湯の中に突っ込み、今度は濡れた手を拭うこともなく、そのザルを抱えて冷たい風に吹かれながら内務班まで持ち帰る。内務班に帰っても煙草の火以外に火だねは無く、手を温めることは出来ない。

そんなことを繰り返すうちに、両手の指が凍傷になってしまった。初めは赤く膨れて痒いぐらいであったが、やがて紫色に変わり、とうとう穴があいて膿が出るようになってしまった。凍傷の甚だしい者には軍手を使用することが許されていたが、演習が終わり、手袋を脱ごうとすると、化膿した部分にくっついてしまって、すぐには脱げない有り様であった。

(註)娑婆(シャバ)=自由を束縛されている軍隊・牢獄または遊郭などに対して、その他の自由な世界。俗世間。
(註)束子(たわし)=食器や調理などを洗う道具。昔は藁や縄を束ねて使用していたが、明治四十年に西尾正左衛門と言う人が、植物の繊維を円形にまとめた所謂「亀の子たわし」を考案し売り出し、これが束子を代表するようになったと言う。(平凡社発 行国民百科事典による)主に棕梠(シュロ)の樹皮やココヤシの実の繊維で作られている。
(註)内務班(ナイムハン)=私が入隊した福岡の歩兵部隊では、中隊ごとに二階建て一棟の建物に居住していた。この建物の中には、隊長室・将校室・下士官室と、上等兵以下の兵卒を収容する複数の居室があった。一つの居室に四十名ばかりを収容していたが、これを内務班と言い、下士官を班長とし、最も古参の上等兵を先任上等兵と称し、内務班の日常の秩序維持の指示をしていた。

昭和初期、食器を洗う道具としては、束子(たわし)の他に、糸瓜(へちま)の実の繊維を乾燥させた、俗に「糸瓜の皮」と言われるものが便われていた。糸瓜の皮は柔らかいので、石鹸が広く使われるようになるまで、体の垢(あか)すりにも用いられていた。

今日では、金属製の束子や、合成繊維・合成ゴムなどから作られたものなど、いろいろな道具が出回り、食器洗い専用の洗剤などもあり、昔の人には考えられない便利な世の中になっている。

なお、洗い終わった食器は、しばらくザルの中に置いて水きりをした後、布巾(フキン)で拭いて食器棚に仕舞っていたようだ。今では、ザルが流しの片隅に設けられた金網に変わっているようだが、さして違いはない。しかし、今日では、食器洗い器や食器乾燥機などという家電製品まであるそうだが、それらを持たない我が家は、まだ一つ前の時代の暮らしをしているわけである。

もっとも、最近では省エネが声高く叫ばれる時代となってきたようだから。逆に時代の先端に居ると自負することにしよう。

ramtha / 2016年5月28日