筋筋膜性疼痛症候群・トリガーポイント施術 ラムサグループ

四、生活機器など(② 冷房について)

② 冷房について

役所や商店はもとより、今では個人の住宅でも、多くはエアコンが取り付けられており。電気代を惜しまねば酷暑の夏も快適に過ごすことが出来る。

昭和初期の公共施設などの状況は知らないが、われわれ庶民の家庭ではエアコンはもとより、扇風機も無く、もっぱら団扇(うちわ)で、僅かに暑気をはらうほかはなかった。

夏の夜は屋外に据えたバンコに腰掛け、纏い寄る蚊を団扇で追い払いながら、夕涼みをしたものだ。下町の小路では宵の口のひと時、浴衣姿の子供たちが線香花火を楽しみ、その傍ではバンコに腰掛け、男達が将棋に興じていたものだ。今では全く見られなくなったが、昭和の夏の風物詩であった。

(註)バンコ=広辞苑によれば、ポルトガル語・オランダ語が語源という。縁台、床几、腰掛。

当時、我が家には扇風機は無かったが、明治専門学校の教官官舎や、明治鉱業の社宅に住んでいた友達の家に遊びに行ったとき、そこでは、扇風機を見たような気がする。だから裕福な家では、すでに備えられていたのだろう。なお、私自身の記憶には無いが、八幡製鉄所の職員官舎では、シーズン中、各戸に扇風機が貸与されていたと、母に聞かされたことがある。

昭和二十五年頃、私は吉隈炭坑の社宅に住んでいた。当時まだ我が家では扇風機を持っていなか。たが、初盆参りで、阿部副長のお宅に伺ったとき、座敷に扇風機が回っているのを見て、羨ましく思ったことを覚えている。しかし、その頃の扇風機はすべて黒い金属製のもので、今日見るプラスチック製の、カラフルなものは、まだ無かったようだ。

麻生本社では、事務室の天井に、大きな扇風機が幾つか取り付けられていたが、いたずらに暑い空気をかき回すばかりで、あまり効果は無かった。たしか麻生太賀吉社長は冷房がお嫌いであったと耳にしたような気がする。そのためか、世間一般にクーラーが出回っても、我が社にはなかなか導入されなかった。

格別汗かきの私は、真夏の暑さにはほとほと困惑したものだが、太賀吉社長はどのような修錬をされていたのか分からないが、真夏でも背広を身に付け端然としておられた。ずいぶん晩年になられてからは、上着を手にされている姿を見かけたこともあ。たが、それまでは、どんなに暑い日でも、上着を脱がれるようなことはなかった。私は仕事上、社長室に出入りすることがあったが、その度に上着を着なければならず、苦になったことが思い出される。

昭和四十一年、麻生太郎さんが入社され、翌年、会社分離により、麻生セメント(株)の副社長に就任された。その年、セメント本社の事務室にクーラーが設置された。麻生石炭本社事務所より天井が低く、格別暑いセメント本社事務所で、経理担当者はしばしば汗を拭うなど苦労していたが、そんな社員の姿を見られた太郎さんの指示によって実現したものであったと聞いている。

だが、我が家では、まだクーラーには手が出ず、扇風機に頼っていた。昭和四十六年上京、目黒区八雲の借家に住むこととなったが、我が家は依然としてクーラーは持たぬのに、密接する隣家のクーラーの排気に悩まされ、まだヒートアイランド現象などと言う言葉は無かったが、都会の夜の暑さを体感したことであった。

昭和五十年、横浜市緑区の分譲住宅を購入、入居に際し、やっと念願のエアコンを備えた。しかし、貧乏性が身に染みついているのだろう、電気代が気になり、いまだにエアコンのスイッチを入れることには、少なからぬ躊躇いを感じる。

加えて最近は、世界的不況の下、多くの人々が厳しい生活環境の中で苦労していると、毎日のように伝えられている。その現役世代に支えられて暮らす年金生活者の身とあっては、よほどの猛暑でないかぎり、クーラーの使用は遠慮しなければと、自戒しているところである。

ramtha / 2016年5月20日