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四、生活機器など(③ ラジオ)

③ ラジオ

今日ではテレビ、それもカラーテレビを備えていない家庭はまず無いだろう。しかし、昭和初期の我が家にはテレビはおろか、ラジオも無かった。

昭和七年だったか、上海事変で戦死した肉弾三勇士に関する放送があるというので、我が家から五百メートルばかり離れた家まで聞き行ったことがある。近隣でラジオのある家はそこだけだったのだろう。沢山な人が集まりラジオ放送を聞いていた。

それから間も無く親父が中古の鉱石ラジオを買ってくれた。そのラジオは、屋外アンテナが必要で、裏の狹い庭の片隅に立てられた竹竿の先端に、アンテナが取り付けられていたようだ。

(註)上海事変(シャンハイジヘン)=上海とその郊外で行なわれた日中両国の局地戦争。満州事変に関連して、昭和七年一月二十八日に始まり、五月まで続いた。

(註)肉弾三勇士=上海の中国陣地攻撃の際、敵の鉄条網を破壊するため、久留米工兵隊の江下・北川・作江と言う三人の兵士が爆薬筒を抱え、突入自爆して歩兵の突撃路を作った。その三兵士の滅私奉公の功績を称え、肉弾三勇士という名称で、広く宣伝された。三人は戦死当時一等兵であったが死後、二階級特進し伍長を贈られた。彼らを讃える軍歌も作られ、小学校ではずいぶん歌った記憶がある。戦時中久留米にはその銅像が作られていたが、その後どうなったかは知らない。

(註)鉱石ラジオ=鉱石検波器を用いた簡単なラジオ。なお、当時は民間放送は無く、唯一のNHKの放送も朝数時間・正午前後一~二時間と夜は五時から九時ぐら
いまでだったように記憶している。今日のような長時間放送になったのは、何時のことだったか、これまた記憶がない。

当時の放送内容は、ニュ-スのほか、娯楽番組もあったが、柳家金語楼の落語、神田伯龍の講談、広沢虎造の浪花節、東海林太郎の歌謡曲、友田恭助・田村秋子らによる放送劇などが思い出される。

またスポーツでは、東京六大学や都市対抗の野球なども放送されていたが、名横綱双葉山の六十九連勝や甲子園での中京商業・明石中学の激闘二十五回戦などには、ずいぶん興奮させられたことである。

しかし、日中戦争が次第に戦線拡大するにつれ、放送内容も戦時色が強まり、志気を鼓舞する軍歌や戦況報道が多く流れてくるようになった。

昭和十八年九月、大学在学中、家庭教師をしていた家のお嬢さんに誘われ、NHKのスタジオに勧進帳の放送風景を見に行った。

マイクに向かって歌舞伎役者が台本を手に、ラジオ放送をしているのを、ガラス越しに観客席から見ていたら、突然芝居が中断し、「臨時ニュースをお知らせします。
臨時ニュスをお知らせします。」という声がけたたましく流れてきた。すわ何事ならんと、耳をすませていると、「戦況重大な時局に鑑み、文科系学生の徴兵猶予を停止する。」と言う東条首相の声明を放送している。

私のような貧弱な体でも、いずれは戦場にとは思っていたものの、余りにも唐突な発表に、一瞬呆然となった。しかし、他人の目がある。私は努めて平然たる素振りをしていたが、
「大変なことになりましたわ。こうしてはいられませんね。もう帰りましょう。」
と、お嬢さんは席を立とうとした。
「いや折角だから終わりまで見ましょう。」
と、私は強がりを言って、引き続き始まった勧進帳を見続けたが、もう心はここになかった。

観劇が終わって表に出たら、灯火管制下の街は殊更暗く、危うく石段を踏み外そうとした。動揺する心を見透かされたのではないかと一瞬思ったが、彼女はなにも言わなかった。地下鉄虎ノ門駅へ向かう通りは暗く、靴音だけが夜の通りに響いていた。

(註)灯火管制(トウカカンセイ)=夜間、・敵機の来襲に備え、減光、遮光、消灯すること。太平洋戦争中は毎晩のように灯火管制が行なわれ、電灯の笠に黒い幕を下げ、その下で食事をし、勉強もしていた。昭和二十年八月十五日、玉音放送で終戦を知らされたときは、虚脱感が胸いっぱいに広がるとともに、これからどうなるのかと言う不安に戦(おのの)いたが、その夜、遮光幕を取り外し、部屋中がパッと明るくな。た瞬間、平和の到来を実感したと言うことを多くの人から聞いたことである。

(註)徴兵猶予(チョウヘイユウヨ)=旧兵役法では学校在学中の者や国外にある者に対しては、徴兵の時期(満二十歳》を延ばすこととなっていた。このため、翌年の東大受験を目指し浪人中の者は、その間、私立大学に授業料を納め、在学の形をとっている者も少なくなかった。

トランジスタが開発され、携帯用の小型ラジオが世に登場したのは、何時のことだったろうか。昭和三十年代半ばには、職場の旅行に携行した記憶がある。初めは朝の散歩に持って行き、ニュースを聞いたりしていたが、やがて出張の際にも携行し、乗物の中でもイヤホンで利用したりしていたこともあったが、ニュ-ス以外はあまり興味が無く、何時とはなしに使わなくなった。

昭和四十六年、東京へ転勤、一家を挙げて転居した。
あたかも関東大震災から五十年経過し、再発の周期が近いという予測が伝えられ、災害時に備えての必需品を入れる非常持ち出し袋が目黒区から支給された。加えて毎日のようにマスコミから脅され、我が家でも懐中電灯などとともに小型ラジオを購入した。しかし幸いにして予測は外れ、今日まで無事に経過し、用意したラジオはどこに姿を消したのか、今では見当らない有様である。

ramtha / 2016年5月19日