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四、生活機器など(⑤ 電話・電報)

⑤ 電話・電報

アレキサンダー・グラハム・ベルが有線電話を発明したのは一八七六年(明治九年)で、明治二十三年十二月には、東京・横浜の電話交換業務が開始されている。なお、日本史年表(東京堂出版)によれば、明治三十二年には東京~大阪の長距離電話が開通し、官営八幡製鉄所の第一高炉の火入れは明治三十四年となっている。

これらを見ると、明治三十年代には北九州にも電話が出現していたに違いない。しかし、商店、病院や弁護士など特殊な自営業者や大企業の幹部などは別として、一般家庭にはどの程度普及していたのだろう。

昭和初期の学校では校長室などに備えられていたのだろうが、当時私は電話器を見た記憶がないし、先生や両親など大人の会話の中でも、電話に関する話を聞いたことは無かったようだ。

高校や大学では電話器はあったことと思うが、使用したことも無ければ、何処に備えられていたかも覚えていない。全てと言っていいほど、どの家にも電話があり、私のような隠居の身でも、毎日のように使用している今日からすると、電話なくして支障なく暮らしていたことが、私自身不思議にさえ思われる。

そんなことで、私が初めて電話を利用したのは、戦後入社して炭坑の独身寮に備えられた社内電話であった。昭和三十八年夏、職場をともにしていた広津ウメ女史が亡くなったという知らせを受けた。故人とかねて親しくしていた人々に、私から連絡することにした。その中で故人と特に親しかった後藤恒子さんへは、その日行なわれる福岡での通夜に間に合うよう、是非とも知らせねばならないが、当日は日曜日で、彼女の自宅まで行かねばならない。各所への連絡で忙しい私の代わりに、当時小学校六年生の長男に、弁分まで四キロばかりの道程を走って行かせた。
途中日陰も無い真夏の道は、子供の身にはずいぷんと辛かったようであったが、まだ電話を持だなかった時代の忘れられない思い出である。

自宅で電話器が見られるようになったのは、それから間も無くのことだった。社宅に会社の鉱業特設電話が引かれたのが初めてで、やがてNTTの電話も、備えられるようになった。
NTTの電話器も、昔は壁掛けもしくは箱形のもので、取り付けられたハンドルを手で回し、電話局の交換台を呼び出し、通話先の電話番号を交換手に告げて、繋いでもらうと言うものであった。電話機の文字盤を指先で回すだけで、繋がる自動式になったのは、昭和三十年代も後半に入ってからではなかったか。なお、今日のようなコードレスタイプの受話器にお目にかかったのは、平成に入ってからである。

街中で公衆電話ボックスが見られるようになったのは、昭和三十年代のことではないかと思うが、定かでない。店先に赤電話が見られるようになったのは、その後のことだろう。

麻生本社の受付に備えられていた電話を近所の店屋の女房が、厚かましく頻繁に借用するので迷惑すると、受付担当者から苦情があった。社員の私用電話利用を名分にして、玄関脇の公道に公衆電話ボックスをNTTに設置して貰った。しかし、後日、「自宅に電話があるのでしょう。利用しているようには見えません。」と受付の女性が話していたのは、昭和三十九年頃のことであった。

昭和初期の庶民の通信手段は、自ら相手の所まで歩いて行くか、遠い相手には郵便に頼る他は無かった。だから、当時の人は葉書や封書をよく書いていた。急ぐときは、速達を利用し、さらに緊急を要するときは、電報に託した。

日本人の手紙を書く習慣は、江戸時代、寺子屋で「庭訓往来」を学習したことで養われたものと思われるが、電話、とりわけ最近の携帯電話の普及で、文章表現力が失われつつあるのは、嘆かわしい限りである。

(註)庭訓往来(ティキンオウライ)=初学者の書簡文模範例として、一年各月の消息文を集めたもの。

電報は全文カタカナで、字数により料金が計算される仕組みであるから、如何に字数を少なくして、誤り無く意を伝えるか、すいぶん工夫したものである。字数を減らすため、文意の切れ目に入れるべき段落の記号を節約すると、とんでもない誤解を生じかねない。

東京に遊学中の息子が、学費を使い込み、田舎の親父に送金依頼の電報を「カネオクレタノム」と打ったら、「ダレガクレタカノムナタメトケ」と返事が来たという笑話があった。

電話が広く普及されるようになり、郵便は、もっぱらダイレクトメール専用となり、電報は形式的な慶弔電報のみとなってしまったが、携帯電話など通信手段の進化する中、電報はやがては埋没してしまうことだろう。

携帯電話とATMを利用する振り込め詐欺が横行しているようだが、携帯電話もキャッシュカードも持たない私は、詐欺の相手にもして貰えないでいる。

ramtha / 2016年5月17日