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六、衣類・履物・雨具など(⑤ 中学生時代の服装)

⑤ 中学生時代の服装

少子化社会と言われる今日、一人っ子または一男一女という家庭が多く、また昔に比べるとよろず豊かになっているので、上の子のお下がりを着せられるなどと言うことは、どこの家庭でも無いのではなかろうか。

前にも記したように、昭和初期の庶民の家庭では、兄弟姉妹が五、六人というのが一般的な家族であったから、一番上の子は成長にあわせて、次々と新しい服を与えられても、同性の二番目以下の子供は、上の子が着た衣服を着せられる、いわゆるお下がりで我慢させられたものである。次男に生まれた私は、五歳年上の兄のお下がりをもっぱら着せられたものである。兄はよろずに几帳面で綺麗好きであったのに対し、私は乱雑極まり無かったので、母から
「お兄ちゃんは服も大事に着ていたのに、この子は万事手荒いから、服も着せた途端に破ってしまう。」
と、しばしば小言を言われものである。
しかし私は内心
「俺だって新品を着せて貰えば破けたりするものか。兄貴が散々着古して、いい加減くたびれた頃、俺に回って来るのだから、すぐ破れたり綻んだりするんだ。次男に生まれて損をする。」
と思っていた。

余談だが、小学校の教科書も当時は全国一律の国定教科書だったから、私はもとより同級生の過半数は、お下がりの古い教科書を使っていた。長男や長女の生徒でも、親戚や近所の家で不要になった教科書を譲り受けて、使用している子も少なからず居た。

昭和十年に、その年卒業した兄と入れ替わりに、小倉中学に入学した。だから制服は、また兄のお下がりを着せられる筈であったが、この年度から福岡県では中等学校の制服の色が黒から薄緑に変わることとなり、私も新品の制服に手を通す幸せに恵まれたことであった。

それまでは、冬は黒の小倉服、夏は薄手の霜降り小倉であったが、私たちの年度からは、冬服は裏付、夏服は薄手と季節により衣更えはしたが、色は夏冬同じであった。

なお、私たちが卒業した後、国中に戦時色が深まるにつれ中学生の制服も、陸軍の軍服と同じカーキ色のいわゆる国防色のものに改められたようである。

(註)カーキ色=土埃を意味するヒンディ語の「KHAKI」が語源で、黄色に淡い茶色の混じった色。枯れ草色。

小学校の学童服は折襟になっていたが、中学の学生服はどこの学校も詰襟で、首もとはホックで留める仕組みになっており、胸には学童服と同様に五つの金属製の釦(ぼたん)がついていた。中学の朝礼では、毎朝服装検査があり、真夏でも、釦はもとよりホック一つでも外れていたら、たちまち「たるんどる」と、ひどく叱られたものである。

中学の制服では、襟の左右の首もとに、所属する学年とクラスを示すバッジを付けていた。たしか学年はローマ数字で、クラスはA~Eのアルファペットとなっていたのではなかったか。だから初対面の生徒でも。何年何組の生徒であるか、一目で分かった。

なお、当時の小倉中学では、二年ではB組に、三年ではC組に、成績順位の下から五十名を集めて、学力向上のため補習授業を行なっていた。また四年では逆に成績上位五十名をE組に集め、四年から高校・陸士・海兵への進学受験のための補修授業をしていた。だからその生徒の襟章で、学外の人にも本人の学力が推測されたことであった。今日のご時世なら、即座に不当な差別だの、人権蹂躙だなどと騒がれるところだろうが、当時は誰も問題とすることなどなかった。

昭和十五年、初めで上京し、当時東京市立一中の生徒だった従兄弟が、背広、ネクタイの制服を着ているのには驚いた。それとともに、初めて都会と田舎の落差を実感したことであった。

歴史年表を見ると、大正十四年に陸軍現役将校学校配属令が公布されている。だからこの頃から中学の教育課程に軍事教練が取り入れられ、それに伴。て中学生に巻脚絆を着用させられることになったのではないかと思われる。

北九州の多くの中学校では、陸軍の歩兵の巻脚絆と同様のものをしていたが、小倉中学は海軍陸戦隊の使用していた白いゲートルを穿くことを義務づけられていた。

ゲートルは長ズボンの脛(すね)の部分に当て、七つばかりある釦でとめる仕組みになっており、通学の往復はもとより、武道・体育の時間とクラブ活動の時以外は、授業中も着用させられていた。

昭和の風景 ゲートル

真夏の下校時など、あまりの暑さに、校門を出て、人目につかぬ所でゲートルを外し、帰宅したことも何度かあった。上級生に見つかると制裁を受けることにもなりかねないので、びくびくしてのことであったが、私は幸いにして、そういう目に遭うことは無かった。

脛の外側に付いているゲートルの小さな釦は、教練で匍匐前進(ホフクゼンシン)などさせられると、地面との摩擦で千切れて無くなり、後で探すのに苦労したものである。

(註)脚絆(キャハン)=旅行する時などに歩きやすくするために脛(すね)にまとう布、脚絆には陸軍が使用していた脚に巻き付ける巻脚絆と、海軍陸戦隊の使用していたボタンでとめる方式のものがあった。広辞苑の説明では、ゲートルとは脚絆の総称ということだが、私の記憶では、巻脚絆に対して、ボタン式のものをゲートルと呼んでいたように思う。

(註)海軍陸戦隊り海軍が臨時に軍艦から派遣する軍隊。戦時・事変に際して居留民の保護、陸軍の上陸援護、局地の暫時占領、海陸交通の保護などに任じた。ほかに常時編成した海軍特別陸戦隊があった。

(註)匍匐前進(ホフクゼンシン)=敵の銃弾を避けるなどのため、地に伏し、手と足で這い進むこと。

中学の靴は黒の編み上げの革靴で、入学の時新調してもらったが、値段は覚えていないもののずいぶん高かったという記憶が残っている。だから靴は通学時専用にして、自宅では下駄かゴム裏草履を履いていた。

当時の下駄には、私たちが履いて居た安物の杉下駄から、高級な桐下駄までいろいろあった。また台木に差歯した高下駄もあった。中学から高校の頃、学生はよく朴(ほお)の木を材料にした朴歯(ほおば)の下駄を履いていた。

なお女性の高下駄には、雨や雪の日、足袋の爪先が汚れないように、下駄の先端を覆う爪革(つまかわ)を掛けたものも見られた。和服の女性が赤い蛇の目傘をさし、片手で着物の前檣(まえつま)を僅かに持ち上げ、爪革をかけた華奢な高下駄で水溜りを避けながら歩く姿は、まことに艶のある風景であった。

(註)爪革(つまかわ)=雨・雪降りなどに、下駄の爪先を覆って汚れを防ぐ用具。爪掛(つまがけ)。

下駄には足指を掛ける鼻緒がつきものだが、布製の鼻緒は歩行中に切れることがあり、手持ちの手拭いを引き裂き、道端で鼻緒のすげ替えをする姿も、しばしば見られた。縁起をかつぐ人は、鼻緒切れは良からぬことの前兆と、忌み嫌ったりしたようだが、鼻緒切れで困悪している人を手助けした緑で、若い二人が結ばれるロマンスは、時代小説にしばしば登場するところでもある。

私はついぞ使用したことは無いが、竹皮草履の裏に牛皮を張った雪駄(セッタ)と言う履物があった。上級生の中には、雪駄を履いて街へ出て行く者も居たが、そういう生徒は「あいつはこの頃えろうニヤケとるぞ」と、周りの者から噂されたことだった。

(註)にやける=男がめめしく色めいた様子をする。

雪駄の踵(かかと)には、摩耗防止のための裏金がつけてあったので、歩く度にチャラチャラと音がした。

♪芸者の真実。雪駄の裏の皮。
金のあるうちや チャラテャラと’・・♪

と言う俗謡があったが、雪駄を履く人といえば、商家の粋な若旦那が連想されるのは、そのためかも知れない。

前述したように、小学校のときは、冬は靴下を穿いても、夏場は素足に直接ズックの運動靴を履いていたが、中学に入って革靴を使用するようになり、いつも靴下を穿くようになった。しかし当時は今のようなナイロン製のものは無く、すべて綿製の靴下で破れやすく、どこの家庭でも、主婦はその繕いに毎日追われていた。

「戦後強くなったものは女と靴下。」

とは、故大宅壮一氏の名言だが、化学繊維の靴下が世に出て、主婦が靴下を繕う苦労から解放されたのは、昭和二十年代前半のことではなかったろうか。

今日広く使用されているサンダルも、化繊の靴下を追いかけるようにして、われわれの暮らしに登場してきたような気がする。

小学校の時はマントを着用していた私たちも、中学では袖のある外套(ガイトウ)を着ていた。今にして思えば、それは色こそ国防色ではなく、黒いものであったが、形は陸軍の兵隊が着用していたものと酷似していた。あれは冬季の軍事教練で、背嚢を背負い、銃を担ぐことが出来るように配慮されてのことであったに違いない。

なお、私のワープロでは、漢字変換しても「外套」という熟語は出てこなかった。これからすると、前世紀の人類である私は知らなかったが、オーバーコートを意味する「外套」は、今では死語になっているらしい。

(註)国防色(コクボウショク)=もと陸軍軍服のカ-キ色。またそれに類似した色。

(註)背嚢(ハイノウ)=軍人・学生などが物品を入れて背に負う方形のかぱん。皮・ズックなどで作る。ランドセル。

中学の制帽は、小学校の学童帽子と同じ前鍔のある黒い帽子であったが、徽章の下に白線を一本巻いていた。なお、六月から九月までの間は、小学校と同様に日覆いを被せていた。

昭和の風景 中学生

当時の小倉中学は、一クラス五十名、一学年五クラス(五年のみ四クラス)編成であったから、全校生徒は千二百名ばかり居たわけである。毎年六月一日、一斉に衣更えした生徒が、朝礼に集合すると、全員の日覆いが校庭に千余の白い花を咲かせたが、それは空に浮かぶ入道雲とともに、私たちに夏の到来を実感させる昭和の風物詩であった。

私が卒業した後、制服が国防色のものに変えられたことは前述したが、そのとき帽子も戦闘帽に変わっていたようである。なお戦争末期には軍人・学生に限らず、防空演習に参加する民間人も、多くは戦闘帽を被っていた。

(註)戦闘帽(セントウボウ)=戦闘用の帽子。旧日本軍が戦時に用いた略帽の俗称。

前述したように、小学校の時は、教科書やノートなど学用品はランドセルに入れて通学していたが、中学では肩から提げる雑嚢(ザツノウ)を使用していた。小学校と違い中学では科目も多く、それぞれの教科書も分厚くノートから弁当まで入れると、相当の重さになった。
それでも晴れた日はさしたることもなかったが、雨降りともなると、雑嚢が濡れないように、片手で傘をさし、片手で雑嚢を抱えて登校しなければならなかった。我が家から学校まで、三十分ばかりの道程(みちのり)を重い雑嚢を抱え通しにすると、肩が凝り腕が痺れるような思いをしたことである。

ramtha / 2016年5月2日