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六、衣類・履物・雨具など(⑦ 昭和十七、八年の衣服事情)

⑦ 昭和十七、八年の衣服事情

昭和十七年四月、大学入学のため上京し、伯母の家に世話になることになった。大学も制服は黒の詰襟であったが、世相は次第に戦時色を深め、よろず生活物資も日を追って乏しくなる時代であった。衣服についても、すでにその年の二月に衣料点数切符制が実施されおり、新たに購入することは、難しい状況であった、はっきり記憶しているわけではないが、兄が歯科医専在学中使用していた服を譲り受け着用したのではなかったか。また、軍事教練用の服は、高校時代の冬服の裏を剥いで、夏冬使用することにした。

高校時代のマントは卒業のとき、後輩に譲り、大学では、これまた兄が学生時代着ていたオーバーを着用したが、在学中に徴兵されることになり、ひと冬着ただけであった。あのオーバーは、どう始末したか記憶が無い。

一方。国産の絹製品は綿より点数を要しなかったのでレインコー卜は絹製のものを購入したが、これまた、あまり使用することなく、学徒出陣で東京を去る時、従兄弟に譲ったことであった。今にして思えば、戦死を覚悟していたということではないにしても、再び復学する日があろうとも考えていなかったのだろう。

当時の大学生は慶応の丸帽以外は、どこの大学も概ね角帽を被っていたようだ。
靴は革の短靴を履いていたように思うが、教練の時はどうしていたのだろう。中学から高校まで使っていた編み上げ靴を引き続き使っていたとは思えないのだが、思い出せない。

戦局はますます厳しくなり、本来三年間の学習期間は私たちの年度から二年半に短縮され、一年生の夏休みは返上、十月には二年に押し上げられた。

入学した直後の四月十八日には、米軍機による最初の東京空襲があるなど、日増しに落ち着いて勉強する雰囲気ではなくなって行った。そして翌十八年九月二十一日には文科系学生の徴兵猶予が停止され、三年生になったばかりの十二月一日には、私も入隊することとなった。

顧みれば、わずか一年半ばかりの、まことに慌ただしく、明日をも知れぬ時代の中で、私自身不安定な精神状態にあったのか、どんな衣服を纏い、どのような暮らしをしていたか、その間の記憶はまことに覚朿ない。

世話になっていた伯母の家は吉祥寺の住宅街で、近くには一橋大学の上原専禄教授や参謀本部の高級将校などが住んでいた。そのような近隣のご婦人方は、日頃それ相応の身嗜(みだしな)みをされておられたものの、やがて防空演習が頻繁になるにつれ、もんぺ姿でいることが多くなって来た。また防空演習ではバケツリレーなどもさせられ、みなさん、もんぺにゴム長靴を履いて参加しておられたことが思い出される。

(註)もんぺ=袴の形をして足首のくくれている、股引きに似た衣服。保温用または労働用。

ramtha / 2016年4月30日