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六月六日 「カタヨル」と「アマネク」

偏食(ヘンショク)と言えば、食べ物に好き嫌いがあり、自分の好きなものだけ食べるカタヨッタ食事のこと、偏向(ヘンコウ)は、一方にカタヨルこと、中正を失ったカタヨッタ傾向を言い、特定なイデオロギーにカタヨッタ教育は、偏向教育と非難される。また偏見(ヘンケン)は公正でないカタヨッタ見解・・・と言うように、「偏」(ヘン)はカタヨル、カタヨッタという意味を表わしている。

これに対して、遍歴(ヘンレキ)とは、アマネク各地をめぐり歩くことであり、普遍(フヘン)はアマネクゆきわたること、すべてのものに共通してあるもの、という意味で、普遍的とか普遍妥当性などと使われる。

四国八十八ヵ所の霊場を余すところなく巡礼するのが遍路(ヘンロ)である。こうしてみると「遍」(ヘン)は、どうもカタヨルことなく広くアマネクと言う意味のようである。

「偏」も「遍」もいずれも同じ「扁」を音符とする形声文字であることは、一見して明らかである。形声文字で音符を同じくする漢字は、意符を異にしても、音を同じくし、またその意味するところのイメージも共通するものがあるという。とすれば、「偏」と「遍」とは共通するイメージをもっているはずである。ところが「偏」はカタヨル、「遍」はカタヨルことなくアマネクと言うのであれば、その意味するところは正反対ではないか。
いったいこれはどうしてだろう。「扁」をたずねてみることにしよう。

「扁」(ヘン)は、辞典によれば戸と冊(字を書き付けた札)とを合わせた会意文字で、門戸にかかげる札、転じてヒラタイ意に用いる。とある。だから「扁」の第一義は、家屋の門や玄関に掲げられている門札、表札である。

「扁額」(ヘンガク)は、お寺の山門に掲げられた横長い額や、座敷など室内の高い所に飾られた書画の額を言う。また、「扁」のヒラタイ意から土踏まずの無いヒラタイ足の裏を偏平足(ヘンペイソク)と言う。「扁」がフダであり、ヒラタイを意味することは以上の通りだが、では、「扁」を音符とする字にどんなものがあるだろう。

「編」(ヘン=あむ)は糸が意符、扁(ヘン=うすく平らな竹の札)が音符で、原義は糸で竹のフダをつづり合わせること。ひいてアム意に用いられる。今日、「毛糸でセーターを編む」などと言うのは、その最も一般的な用法である。

アムは、もともとバラバラに散在するものを一つにマトメルことだから、文書などを集めてマトメルことを編集と言う。
また、いくつかあるものを一つにまとめるには、まとめようとする材料に、まず〈順序をつけてならべる〉必要がある。学級編成や、番組編成の「編成」は〈順序をつけてならべる〉ことである。

「篇」(ヘン)は一綴りとなった書物で、長編小説など二冊にわたるとき、これを前篇・後篇と呼ぶ。紙が発明される以前は、文字を書き付ける材料としては、竹や木の札か、帛(ハク=きれ)が用いられたようだが、篇は竹または木の札を綴り合わせたものである。

なお、帛に書付けたものは、今日の反物やトイレットペーパーのように、ぐるぐる巻いて保管したので「巻」(カン)という。だから一つの文章が、二本の巻物にわたるときは、上巻・下巻などと言う。今日の書物は紙を綴り併せてできていることから言えば、上巻・下巻よりも前篇・後篇の方が字義に適っている。逆に、映画はフィルムが巻かれてケースに納められているので、上巻・下巻と言うべきだろう。もっともシナリオは書籍と同様に紙を綴り併せて出来ているから、シナリオの区分によるものと考えれば、前篇・後篇でも差し支えないのかも知れない。

「翩」(ヘン)は鳥の羽が薄く軽やかに風に吹かれる意であろうか、翩翻(ヘンポン・ヘンバン)は、高く掲げられた旗が風にひるがえるさまを形容する。

「蝙蝠」(ヘンプク)は、日暮れになって森の中などをピラピラと飛ぶコウモリのことである。

「諞」(ヘン=かたる)は、言葉たくみに言い回す、口先で巧みに言う意であるが、誠意の無い、内容のウスイ言葉とでも言うことであろうか。聞く耳に快いカロヤカな言葉は、往々にして信用ならない。巧言令色鮮矣仁(コウゲンレイショクすくなしジン)とは論語の説くところである。

「驍」(ヘン)は(かたる・だます)意で、騙取(ヘンシ。=だまし取る)と使われるが、どうしてだろう。馬の鼻先に何かウスイものをヒラつかせる感じのする字ではあるが、辞典にも解字が示されていないので、なんとも推測のしようがない。

だが、しばしば報じられる金融詐欺には、この字がふさわしく思われる。マネーゲームで欲呆けした馬鹿ものの鼻先に、ウスッペラで怪しげな証券やゴルフ会員権をヒラつかせて、ゴッソリ金をだましとっている悪徳業者の姿が彷彿として来るではないか。

以上「扁」を音符とする字を検討してきたが。そこに共通する「扁」のイメージは、ウスイ、タイラ、カルイ、ヒラヒラスルというもののようである。これをキーにしていま一度「遍」と「偏」について考えてみよう。

「遍」のアマネクというのは、ウスク、タイラにヒロクということで、「扁」のイメージから容易に理解できるところである。だから万遍(マンベン)は平等にゆきわたらせることである。

だが、通常「万遍なく」と使われるのはどうしてだろう。文法のことはよく分からないが、この場合の「なく」は否定の「ない」ではなく、「せわしない」、「切ない」などと同じく形容詞をつくる接尾語の「ない」のようである。したがって「万遍なく」は「万遍に」と同じ意味を表わしている。

ところで「偏」のカタヨルはどう理解すべきであろうが辞典の解字では、「偏」は大が意符、扁(ヘン=かたはし=辺)が音符と書かれているのみで、扁がどうしてカタハシの意となるのかは説明されていない。仕方がないので自分なりに推測してみることとする。

「扁」は、もともとウスイ木の札、それも紙の代わりとして字を書き付ける用に供せられたものだから、極端にウスイ札である。だから風が吹けば、たちまちピラピラと舞い上がる。晩秋の校庭では、ポプラやプラタナスの落葉が風に吹かれてグラウンドの片隅に吹き寄せられている。池の水面に浮かぶ枯葉も、いつしか岸辺に吹き寄せられているものである。カルイもの-カタハシ-カタヨル・・・こういうプロセスで、「扁」はカタヨル意を担うこととな。たのではなかろうか。

それにしてもカタヨルを表す字に人偏を配したのはどうしてだろう。人間ほど周囲の環境に支配されやすくカタヨリやすいものはないと悟った古代人の英知によるものだろうか。
「人間は考える葦である」とはパスカルの名言だが、「偏」は自ら考えることなく、時流のまにまに時に右にカタヨリ、時に左にカタヨル軽薄な人間の姿を象徴しているように想われる。ウスク、カルければこそヒロク遍(アマネキ)、またカルイものこそ偏(カタヨル)のであろう。

ramtha / 2016年7月4日