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六月十七日 「イスラムとは何ぞや」

最近のニュースでは、イスラム過激派・イスラムテロとかIS(イスラム国)などの言葉をしばしば耳にする。不勉強な老骨は、イスラムといえば、中東から北アフリカに住む人々と彼らが信仰する宗教で、ユダヤ教やキリスト教と対立して過激な行動でトラブルを惹き起こす民族ぐらいの知識しか、持ちあわしていない。そこでイスラムについての基礎知識を手許の広辞苑に尋ねてみた。そこでは概ね次のようなことが記されている。

アッラー=(Allah:神の意)イスラム教徒の信仰する唯一にして全知全能の神。アラー。

イスラム教=世界的三大宗教の一つ。六一〇~六三二年頃、ムハンマドが創始、アラビア半島から東西に広がり、中東から西へは大西洋に至る北アフリカ、東へはイラン
ーインド・中央アジアから中国・東南アジア、南へはサハラ以南、南アフリカ諸国に、民族を超えて広がる。
サウジアラビアーイラン・エジプトーモロッコーパキスタンなどでは国教となっている。
ユダヤ教・キリスト教と同系の一神教で、唯一神アッラーと預言者ムハンマドを認めることを根本教義とする。聖典はコーラン。信仰行為は五行、信仰箇条は六信にまとめられる。その教えは、シャリーアとして体系化される。法学・神学上の違いからスンニー派とシーア派とに大別される。

中世には、オリエント文明やヘレニズム文化を吸収した独自の文明が成立、哲学・医学・天文学・数学・地理などが発達し、近代ヨーロッパ文化の誕生にも寄与した。
三大聖地はメッカ・メディナ・エルサレム。

イスラム銀行=利子を禁止するイスラム法に立脚する銀行。一九六〇年代後半から中東や東南アジアのイスラム国で多く設立。固定利子の代わりに変動的な利潤を預金者に還元する。無利子銀行。

イスラム諸国会議機構=イスラム国をメンバーとする国際機構。サウジーアラビア、モロッコの主導で一九七一年設立。イスラム諸国の連帯と協力の推進を目的とする。
加盟国・地域は五七。イスラム開発銀行などの専門機関を有する。本部ジェッダ。
イスラム原理主義=イスラムの原理を現代の社会、特に政治に適用しようとする急進主義。主にイスラム復興の過激派についていう。イスラム急進派。

イスラム帝国=イスラム教徒が建設した諸帝国。ムハンマド没後の正統カリフ時代に始まり、ウマイヤ朝を経てアッバース朝に至って極盛に達した。最後のオスマン帝国は一九二二年に滅亡。サラセン帝国とも。

イスラム復興=二〇世紀半ばから顕在化したイスラム世界の宗教復興。イスラム法の再生を目指し、モスク建設や福祉活動を行なう草の根型の復興運動や、イスラム原理主義とも呼ばれる急進的な政治運動がある。

イスラム法=イスラムの法体系で、コーラン・スンナを基礎とし、法学者の法判断によって体系化を行なったもの。個人の内面的生活から社会や国家のあり方まで、人
間生活の全局面を含む。シャリーア。

イスラム暦=イスラム諸国で行なわれる陰暦。ムハンマドのメディナ聖環(ヒジュラ)があ。た年(西暦六二二年の第一月一日、西暦では同年七月一六日)を正月元日
とする。一年(三五四日)を十二ヵ月に分け、九月は断食(ラマダーン)、十二月は巡礼の月として特に神聖視する。ヒジーフ暦。

ウンマ=イスラム共同体。世界中のイスラム教徒が単一の共同体をなすとの理想に立脚し、イスラム連帯やイスラム諸国会議機構の基礎をなす。

コーラン=(Qur’ān)は読誦されるものの意)イスラムの聖典。ムハンマドの受けた啓示を結集したもの。イスラムの世界観・信条・倫理・行為規範をアラビア語の押韻散文で述べ、百十四章から成る。現行の底本は第三代カリフのウスマーンの結集(七世紀)に基づく。クルアーンとも。

カリフ=(後継者・代理者の意)ムハンマドの後継者として、全イスラム教徒の指導者であり、教徒の共同体(ウンマ)の政治的支配者でもある者の呼称。カリフ制は一九二四年まで用いられた。ハリーファとも。

サラセン=ヨーロッパで、古くはシリア付近のアラブの呼称。のちイスラム教徒の総称。ウマイヤ朝やアッバース朝はサラセン帝国とよぱれた。唐名、大食(タージ)。

シーア派=(党派の意)イスラムの一派。ムハンマドの従弟で四代カリフのアリーおよびその家系をイスラム共同体の正しい指導者(イマーム)とする諸分派の総称。
その中ではイラン・イラクなどに広がる十二イマーム派が最大。→スンニ派。

シャリーア=イスラム法のこと。

スンナ=(慣行の意)イスラムで、ムハンマドの言行にもとづく規範・先例・行為規範。イスラム法の典拠として、コーランに次いで重要とされる。

スンニ派=イスラムの多数派。コよフンとスンナおよび共同体の合意に重きを置く。ムハンマドの後継者として正統カリフ四人を認め、ハナフィー・マーリクーシャ・フィイー・ハンバルの四つの法学派を認める。全ムスリムの約九割を占める。スンナ派→シーア派。

ミナレット=(光塔の意)イスラム教礼拝堂(モスク)の外郭に設ける細長い塔。通例一~四基を置く。露台をめぐらし、礼拝の定刻になると、ここから礼拝の呼びかけ(アザーン)を行なう。光塔。

ムスリム=(「神に帰依した者」の意)イスラム教徒。モスレムとも、女性形はムスリマ。

ムハンマド=(賞賛される者の意)イスラム教の開祖。アラビアのメッカで生まれ、四十歳頃アッラーの啓示を受け、預言者として唯一神の信仰と偶像崇拝の排斥を訴えて新宗教を提唱したが、支配者の迫害を蒙り六二二年ヤスリブ(現在のメディナ)に聖遷(ヒジュラという)」
教勢を拡張して六三〇年メッカの征服を達成。勢力は全アラビアに及び、六三二年一〇万の信徒を従えてメッカ巡礼を行ない、アラファートでの説教の後、まもなく病没。啓典としてコーラン(クルアーン)を残した。

モスク=イスラムの礼拝堂。内部にはミンバルという説教壇と、ミフラーブと言う壁龕(ヘキガン)がある。ミフラーブは聖地メッカの方向を示し、そちらを向いて礼拝を行なう。付属建築として外郭には数個のドームおよびミナレットを設ける。

以上の説明で多少のことは教えられたが、西欧諸国とは風俗習慣が大きく異なり、分かりづらい。そこで、池内恵氏著の「現代アラブ社会思想」(講談社現代新書)を繙(ひもと)いてみた。その中で目に付いた幾つかの記述を書き留めることにする。

1、現在のアラブ思想には、「イスラームと反イスラームの戦い」という認識の枠組みが定着してしまっている。イスラエルとそれに支配されたアメリカの陰謀の発見とそれへの対抗」についての関心が突出して高まりつつある。その一方で、欧米の良質な人文・社会諸学の知見が翻訳・紹介されて話題となることは、少ない。まして、欧米の思想を咀嚼(ソシャク)したうえで、独自の思想をそれと対峙(タイジ)させて磨きあげるといった知的営為は、ごく限られた、それもたいていは欧米に活動の拠点を置く、少数の知識人による孤独な営為となってしまっている。

2、近年、「反正常化」という言葉が、アラブ思想のキーワードとなってしまった感がある。「正常化(タトビーウ)とは、この場合、アラブ諸国とイスラエルとの関係向上を指す。国交を開始することに始まり、イスラエル人との文化交流を増やしたり、イスラエルを中東地域の政治・経済に統合することなどを意味する。
現在のアラブ知識人の知力と精力の大部分はこの「正常化」に「反対」することに注がれている。

3、イスラエルを批判する際には、内容の正確さも、まして高度な議論も必要ない、という風潮が行きわたり、イスラエル批判は、いわば知識人の「生活の糧」となってしまった。

4、マフムード・フサインはエジプト近代史を、人民勢力が自らを意識し、徐々に解放される過程として描いた。フサインによれば、歴史叙述の目的は「革命闘争に参加するエジプト人民」を支援することにあり、「人民の一般利益の視点から、支配の形態、抑圧、搾取」の批判を提示することにある。それは「平和的なエジプト農民」という誤った観念を批判し、エジプト史とは「常に人民の蜂起によって動いてきた」と主張することを通じて行なわれる。

フサインの歴史叙述の大筋は、以下のようなものである。一九五二年革命以前のエジプトは、ブルジョワ階級と大地主と帝国主義者によ。て支配されていたが、革命によってプチブルジョワ階級が権力を握った。しかし彼らはその基盤の弱さゆえにブルジョワの利益に奉仕し、帝国主義者の手先になったと言う。そしてプチブルジョワ政権の矛盾が限界に達しはじめたことを示すのが一九六七年の敗北である、とフサインは当時の状況を位置づける。エジプト軍がなぜイスラエル軍に敗れたか、と問い、次のように断定する。

それはエジプト人民の軍ではなかった。武装したエジプト民衆の政治的・軍事的主導権に依拠したものではなかった。それは古典的ブルジョワ戦争においてイスラエル軍に対峙したに過ぎず、それゆえ政治的・イデオロギー的・機構的優位性をその敵に対して持っていなかったのである。

5、「正常化--経済支配のためのシオニズムの計画」(アーディルーフサイン著)は、イスラエルが中東の経済を支配するための陰謀を企んでいると断定し、和平を進めてイスラエルを中東の政治経済秩序に組み込むことに断固として反対している。このような陰謀史観は、ごくあたりまえに流通しているものである。

以上を目にして、教えられたこと感じたことの幾つかを書き留めてみる。

① 「イスラム」という言葉は「イスラム教」という宗教を意味し、同時に「イスラム教を信仰する信者」を意味して、その両者を切り放すことはできないもののようである。欧米人の大半はキリスト教徒であるが、「欧米人」は、人種の名称であり、「キリスト教徒」は、信仰による区別で、その中には黒人も、少数ながら日本人も居る。この違いは何だろう。考えてみると、イスラムでは、いわゆる「政教分離」していないことにあるようである。

② かつてはヨーロッパ文明に影響を及ぼしたと言われる質の高いイスラム文明が、今や欧米文化の後塵を拝する有り様になったのは何故だろう。約一五〇〇年も前のコーランに記された日常生活の細々とした規範に今なお拘束され、世の中の進歩発展に取り残されることになったのではないだろうか。

③ 一九六七年の対イスラエル戦争の敗北について、イスラエルの強力な近代兵器など、戦力の分析などは行なわれず、もっぱら兵士の戦闘意識の脆弱さに帰するなど、非科学的思考にとどまり、問題解決に現実的対応がなされていない。これは、今なおイスラムの宗教的思考に拘束されているからではなかろうか。

④ これは単なる私の推測に過ぎないが、ムハンマドが独立した西暦六〇〇年代のキリスト教は、東西ローマ帝国の時代であり、政教未分離で、その支配者の意向により全て裁決される状態であったのではないか。その頃、些細なことでムハンマドが、規律違反で責めを問われる事があったのでないか。その処置は彼には納得が行かずキリスト教を飛び出したのではなかろうか。

⑤ イスラムテロにしろISにしろ、その行動の過激な性格は何処から来たのか。私の妄想するところでは、イスラムの創始者ムハンマドのキリスト教徒に対する憎悪が、その源にあるのではないか。広辞苑の説明では、彼がイスラム教を提唱した後、時の支配者から受けた迫害のみ記しているが、それ以前に、前述したようなことがあり、周囲のキリスト教徒の迫害を受けたのではないか。
イスラム教の核心には、その時のムハンマドの反感と憎悪が貫かれているように思われてならない。

⑥ また中東から北アフリカにかけての、いわゆるイスラムの地は、どの国も二〇世紀半ばまでヨーロッパ諸国の植民地として、白人に酷使され搾取された歴史を持っている。白人に対するイスラムの人々の心の底には、今なお深い傷跡が残っているに違いない。

⑦ だから、今日世界各地で発生しているイスラムテロは、イスラムの世界では英雄視されているところを見れば、イスラムの人々にとっては、当然の復讐ということかもしれない。

ramtha / 2016年7月7日