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七.食べ物のことなど(② 副食のことなど)

② 副食のことなど

前述したように、戦中戦後の食糧難の時代、ずいぶん雑穀が混入されたり、また昭和末期からは米離れが進んだりしたと言われるものの、日本人の主食が米であることは今日も変わりはない。

それに対して副食は昭和初期、我々が日常口にしていたものと較べてみると、今日のものは大きく変化している。第一に今日ほとんどの家庭では食卓に並ぶおかずの皿数が多く、またその品種も和風・洋風・中華風とまことに多様である。また、昔は無かったさまざまな加工食品があり、メーカーは次々と新製品を開発してとどまることを知らない。外食もしなくなった隠居の身で、まことに貧しい食生活の中にいる私でも、その変化の著しいことは身に染みて感じている。そのいくつかを記してみることにする。

a 野菜について

食材の中で昔からあまり変化が無いように思われる野菜でも、気をつけてみると変化がある。
昭和二十四年、旌忠公園(せいちゅうこうえん)下の社宅では、家庭菜園で不断草を作り、毎朝のように味噌汁の具にしていた。柔らかく癖の無い不断草は、菠薐草(ホウレンソウ)と同様に御浸(おひたし)にしても美味しく、好物であった。

平成二年、横浜から飯塚に引き上げて来た時、年金生活の日課として野菜作りをすることにした、手始めに不断草を作ろうと思い、近くの店で種を求めたが、「何年か前まではありましたが、買い手が無いので置いて居ません」とのこと。
あんなに美味しく癖のないのにと、私は思うが、人の好みも時代とともに変わって行くものらしい、その後たまたま別の店で見つけたが、そこでも不断草の種を買う人は少ないとのことであった。今では我が家で種を取り翌年に備えることにしているが、味は昔と変わらない。

小松菜や春菊(シュンキク)も昔ながらのもののようだが、先頃春菊の種を買ってみたら、袋の表には「しんきく」と書いてあった。全国を販路とする種物屋のものだから、「しんきく」は方言ではなく、言葉の変化によるものと理解すべきことだろう。

昔は酢味噌和えなどした萵苣(チシャ)は、今日ではもっぱらレタスと呼ばれ、サラダ野菜としてお目にかかることが多いが、サニーレタス、焼肉レタスなどさまざまな品種が登場している。

鍋物には欠かせない白菜や、野菜炒めのメインとなるキャベツは昔からのものと思っていたが、日本で栽培されるようになったのは明治初年とのこと。

キャベツの変種のカリフラワーは、子供の頃食べたことがあるが、その頃は花甘藍(はなカンラン)と言って居た。同類のブロッコリーも、その頃から出回っていたのかも知れないが、私が口にしたのは昭和も四十年代になってからではないかと思う。

香りの高いセロリーも子供の頃の記憶が無いので、私は戦後渡来の野菜かと思っていたが、ものの本によれば、わが国では加藤清正が朝鮮から持ち帰ったのが始まりで、別名清正人参とも言われるとのことである。

独活(うど)の酢味噌和えは、お袋から良く食べさせられたものだが、最近はあまり出会わなくなった。今の若い人の好みにはあわないのかも知れない。

五目飯の上に載せて、香りと彩りを添える芹(せり)は昔ながらのものだが、最近では芹に似たクレソンがステーキなどの皿に添えられて居るのが良く見られる。

今日、中華料理などで使われているチンゲンサイは、昔は見たことが無いが、いつ頃われわれの食卓に現れるようになったのだろう。漢字ではどう書くのだろうと、手もとの昭和五十八年版の広辞苑を広げてみたが載っていないところを見ると、われわれ庶民にとっては新顔の野菜なのだろう。

我が家の畑では毎年、獅子唐(シシトウ)・パプリカ・ピーマンなどを育て収穫している。同類の唐辛子は子供の頃から、うどんなどの薬味として馴染みなものだったが、ピーマンは食べた記憶が無く、これも新顔野菜かと思って居た。しかし、調べてみると、明治初年にアメリカから渡来したものと言う。たまたま私が経験しなかっただけのことか、あるいはまだ庶民の食卓にまで及んでいなかったのかは、分からない。

豌豆(エンドウ)には、もっぱら実を食べるグリーンピースと柔らかい莢(さや)を食用にする絹莢(きぬさや)があるが、実が大きくなっても莢は柔らかく、莢のまま食べられるスナックピースもある。これも以前は無かったように思うが、どうだろう。払が知らなかっただけのことかも知れないが、収穫効率も良く美味しいので、今ではもっぱらこれを栽培することにしている。

カレーライスの皿に添えられている福神漬に、昔は必ずタッチャキと呼んでいた鉈豆(なたまめ)が入っていた。甘く歯応(はごえ)のあるその味が大好きで、いつも楽しみにしていたものだが、見られなくなった。鉈豆はもう作られなくなったのだろうか、近くの店でも、隠元豆の種はあるが、鉈豆の種は見当たらない。

十六世紀頃カンボジアから渡来したことから名付けられたと言われる南瓜(かぼちや)は、芋類と同様に収穫後長持ちすることもあって、味噌汁の具や煮物としてずいぶん食べて来た。終戦直後しばらく糸瓜(へちま)のような円柱形の西洋南瓜が現れたが、いささか実が柔らかく、味も今一つという感じであった。そのためか今では見かけなくなったようだ。

毎年、北海道の親戚から道産南瓜が送られてくる。一名鉞(まさかり)南瓜と言われるだけに実が固く、包丁で切るのも容易ではないが、それだけに味は格別旨い。

大根は昔ながらのもので、今日でも刺身のツマや卸大根、あるいは風呂吹き大根やおでんの具として重宝しているが、昔、しばしば食べさせられた宮崎特産の切り干し大根は、今ではあまりお目にかからない。結構旨く栄養価も高いと思われるが、食材豊富な今日、以前のようには食べられなくなったのかも知れない。

豆の種を水に浸して発芽させた萌(もやし)は以前からある食材だが、拉麺(ラーメン)や焼蕎麦などの中華料理が世に広まるに連れて、我々の口に入ることも多くなったように思われる。

葱(ねぎ)、分葱(わけぎ)、韮(にら)、大蒜(にんにく)も昔から庶民の食材として役立ってきたもので味は旨いのだが、独特の異臭を伴う。最近はその臭いを抑える料理法も工夫されていると聞いてはいるが、やはり敬遠され気味のようである。

玉葱(たまねぎ)や人参(にんじん)・牛蒡(ごぼう)も昔と変わらぬ食材だが、子供でも食べやすいように品種改良されたのか、味や匂いは昔のものとは違うようだ。
前世紀の人類である私には、玉葱はビリッとするくらい辛く、牛蒡は苦みが、人参は独特の匂いがしないと、物足りない。

以前に較べると、トマトも本来の匂いがしなくなったような気がする。
こう見てくると、われわれの口にする野菜も、時代とともに、変化しているようである。

b 海産物など

周囲を海に囲まれた日本では、大昔から魚介類を採取して食用にしてきたことは、全国各地に遺されている貝塚が物語っている。また日本人は仏教の渡来によって肉食を忌み嫌うようになり、摂取する動物性蛋白質はもっぱら魚介類となったと言うことだろう。

その後、明治初期の文明開化で、牛肉を食べるようになったようだが、それまで農耕用として牛馬を飼うことはあっても、食用として飼育することが無く、肉食する者を異端視する地方もあったと聞いている。また魚に較べ高価でもあったのだろう、私が育った昭和初期でも、庶民の食卓に牛肉が登場することは滅多に無かった。

前にも述べたように、その頃の食事はご飯か主体で、おかずは贅沢なものと言う観念が行き渡って居たように思う。朝食は味噌汁に沢庵などの漬物、それに鰯(いわし)の目刺しが二匹もつけば、良い方であった。

今日では日本全国、小学校は学校給食となっているようだが、私たちの時は弁当持参で、それも野菜の煮つけに塩鮭の一切れでも入っていれば、ご馳走であった。たまに卵焼きか明太子が入っているときは、飛び上がりたくなるほど嬉しかったことが思いされる。

太平洋戦争が開始したのは、昭和十六年十二月八日であったが、その後毎月八日は、開戦詔勅が出された「大詔奉載日」とされ、その日は、困苦欠乏に耐え聖戦完遂の決意を新たにするため、おかずは梅干しだけの日の丸弁当と決められていた。

そんな時代でも、夕食には油揚げや豆腐の味噌汁、野菜の煮つけに焼魚や煮魚などが添えられてはいたものの、今日のような品数豊かな食卓には程遠かった。

魚といっても鯛(たい)や鰤(ぶり)などは来客用で、日常は煮つけにしろ焼魚にしろ、ほとんどが鰯で、たまに出される鰺(あじ)の開きや鯖(さば)の煮つけは、ご馳走の部類であった。ところが最近は海流の変化で、鰯は昔ほど獲れなくなり、今では大衆魚ではなくなったとも言われているとか。

昭和初期、海辺に近いところでは、刺身を口にすることも出来たが、少し離れたところでは、干物か口の曲がるほど塩をしたものを、焼魚にしたり煮魚にして食べていたようである。

私の育った小倉は海に近かったので、まれには刺身も食べさせてもらったが、当時は天秤棒の両端に磐台を吊り提げて振り売りする魚屋から買い入れ、家でお袋が捌いた刺身だから、小骨が残っていて、取り出すのに苦労したものである。また鰺や鮹の煮つけなどのとき、無器用な私は骨を選り分けるのにいつも苦心した、だから時たま与えられる鮭(さけ)の缶詰めは、骨まで柔らかく一緒に食べられるので、大歓迎であった。

魚の食べ方の上手下手は、どうも天性のものではないかと思われる。私はこの年になっても、うまく処理できず、家内から「勿体無い食べ方ね」と言われるが、魚好きの次男はいつも骨だけを残して見事に食べている。

今日では、プロの捌いた刺身や、切り身が小皿にパックされて店先に並べられているから、消費者はそれを利用し、家で魚を捌く必要は無い。だから昔の家庭では、必需品であった出刃包丁も刺身包丁も、持っていない家庭も少なくないようである。

肉類や加工食品などが食卓を賑わせるようになり、多くの日本人が、私同様。魚の食べ方が下手になったような気がする。小骨の無い刺身とか鰻の蒲焼きなどは、今も人気があるが、焼魚・煮魚となると、今時の若い人たちはあまり手を出さないのではないかと思われる。

海産物の中で、大きく様変わりしたものの一つは数の子である。数の子は北海道やサハリンの西海岸で獲れる鰊(にしん)の卵で、正月の縁起物として欠かせないものだが、長年の乱獲により激減し、今ではお歳暮用品の中でも高級品となっている。塩鮭も昔は庶民の弁当におかずとして入っていたものだが、漁獲量の減少で、今では値段が高くなっているらしい。

また、かつては庶民の食材として広く利用されていた鯨(くじら)は、国際条約で捕鯨が禁止され、今では僅かに認められている調査捕鯨によるものが、時たま売られて居るに過ぎないとか。私も子供の頃から赤身は焼肉で、オバイケと称する白い脂身は酢味噌和えにして食べさせられた。四十年ばかり前、魚市場に勤務する知人から冷凍した尾の身を頂き、勧められるままに、刺身にして食べたが、その旨さはいまだに忘れられない。

家庭には冷蔵庫が無く、冷凍輸送車も無い時代は、蛸(たこ)は煮つけ、烏賊(いか)はもっぱら鯣(するめ)で食べて居た。
かつては毎朝、下町に流れていた浅蜊(あさり)売りの声も、今では聞かれなくなったようだ。昔は日本の沿岸で獲れていた浅蜊も、獲れなくなったのか、先年、北朝鮮産の浅蜊を、中国産として輸入した業者が摘発されたと報道されていた。最近我々が口にする海産物には、アフリカの沖など、遠くの海で獲れた外国産のものがずいぶん含まれているらしい。

C 肉・卵・乳製品など

前にも述べたように、昭和初期、肉類はいずれもご馳走で、ことに牛肉の鋤焼(すきやき)などは滅多にお目にかかることはなかった。

鶏肉は、食堂のチキンライスや親子丼の中にも入ってはいたが、家庭では、博多の御節(おせち)料理に欠かせないがめ煮(煮染め)や、かしわ飯の具として人参、牛蒡などと一緒に食べるくらいであった。今のように空揚げや肉団子などにして食べたことは無かった。

ケンタッキーフライドチキンの店先に立つ、あの紳士姿のイメージキャラクターを、横浜たまブラザー駅前で見るようになったのは、確か昭和五十二年のことだった。

子供の頃、寒い冬の夕食には、我が家でも豚汁が作られたが、これも葱、里芋、人参などの野菜の中に隠れている豚の肉片を探し出すようなものであった。それでも豚汁の鍋から立ち上がる温かい湯気は、ちょっぴりながら豊かな気分にしてくれた。

母の従兄弟が臼杵から出てきた時などは、我が家最高のご馳走である鋤焼の相伴(ショウバン)にありつくことが出来た。これも焼豆腐、白滝、白菜、葱や薄く輪切りにした大根などを多く入れたものではあったが、鋤焼の味のしみ込んだ大根の旨味は今に忘れられない。

昭和十四年三月、福岡高校合格発表のあった夜、母が鋤焼を奮発してくれたが、まことに希有(ケウ)のことで忘れられない。

久しく「卵は物価の優等生」と言われて居たように、昔に較べると、安価で栄養価の高いまことに有り難い大衆食材となっているが、かつては牛乳とともに病人用のもので、健常者が食べるのは贅沢なと感じられて居たような気がする。昔は農家の庭先を歩き回る鶏が良く見られたが、あれは地鶏(じどり)やコーチンなど肉食用のものか多かったようだ。しかし鶏小屋を設けられるぐらいのスペースがあれば、二、三羽の鶏を飼うことは素人でも出来る。

私も戦後炭坑の社宅で、白色レグホンを二羽飼っていた。当時は毎日、産卵していないか、鳥小屋を覗く楽しみがあった。しかし、初めは毎日卵を産んでくれる鶏でも、二年目となると次第に産卵数が減ってくる。最後は潰して食用にすることになるが、我が家で飼った鶏を殺すのは気が重く、他人に処分してもらった。

昔は牛乳を常用する家には、毎朝早く一合入りの瓶が配達されていた。冬の朝など、まだ眠りの中にある街に、牛乳配達の自転車が瓶の触れ合う音を残して、濃い霧の中に消えて行く姿が見られたことであった。牛乳の宅配は今も無くはないが、多くはスーパーで紙パック入りの牛乳を利用している。

バターは明治十三年、日本で初めて粉ミルクやクリームと一緒に売り出されたと言うことである。亡父が中学生の時(明治三十年代)初めてバターを口にし、余りの旨さに食べ過ぎて翌日下痢したと話していた。昭和初期我が家にもバターはあったが、高価だったのだろう、今のように気軽に使用してはいなかった。

バターより動物性脂肪が少ないところから、代用品として今日広く使われているマーガリンが登場したのは戦後のことであったが、当初は魚油の臭いがして、使用が躊躇われたが、次第に改良されてバターと変わらぬ品質に向上、今日に至っている。

チーズも明治以後に西洋から渡来したものと思っていたが、どうもそうは断定出来ないようだ。というのは、昔から使われている「醍醐味(ダイゴミ)」について、広辞苑では次のように説明しているからである。

醍醐(ダイゴ)=五味の第五。乳を精製して得られる最も美味なるもの。仏教の最高真理にたとえる。醍醐味は醍醐のような味、すなわち美味を褒めて言う語。深い味わい。本当の面白さ。

仏教伝来とともに「醍醐味」という言葉だけが導入され、当時の人は今日のチーズに相当する醍醐そのものは知らなかったのかも知れない。しかし、昔の人も牛乳を飲んだことは、あったようであるし、豆乳から湯葉を作る技術があったことを考えると、摂取していたのは、ごく一部の貴族に限られて居たかも知れないが、醍醐=チーズは昔から日本にあったものではないかと思われる。

d 加工食品

熱湯を注いで三分間だけ待つカップラーメンなどのインスタント食品はもとより、今日私達が口にする食材の多くは、加工食品と言っても良いのではなかろうか。
買い置きしたものを冷蔵庫から取り出し、電子レンジでチンするだけのレトルト食品など、昔の人には考えられないようなものまで、実に多くの加工食品が使われている。

ところで昭和初期からの加工食品と言えば何だろう。すぐ頭に浮かんでくるのは、豆腐、油揚げ、蒟蒻(コンニャク)、竹輪、蒲鉾、薩摩揚、湯葉、干瓢、海苔、佃煮、漬物、干魚などである。子供の好きなハムやソーセージもあるにはあったが、当時は高級品で、庶民が毎日食材にすると言うようなものではなかった。

納豆も昔ながらのものだが、昔は藁苞(わらづと)に入ったまま売られて居たので、取り出す時、くっついた藁筋を外す苦労があった。今のような容器に入れられるようになったのは昭和四十年前後のことではないかと思うが分からない。

筑前独特の食べもののオキウトは海草を原料とする加工食品だが、交通が発達し全国的に人が激しく移動するようになった今日でも、余所ではあまり見られない。

銀座には福岡県人の馴染み客のためにオキウトを出す飲み屋があったが、味は今一つという感じであった。

ramtha / 2016年4月22日