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八、道路・乗り物・旅行など(① 昭和初期の通学路)

一昨年はリーマン・ブラザーズショック、昨年はドバイショックで為替相場が急激に変動し、昨年暮れには1ドル=八五円の円高となり、大騒ぎとなった。ところで、円高になれば海外に出かける日本人が増え、円安となれば外国からの観光客が多くなる。今日、旅行会社にとって、為替相場は重大関心事となっているそうだ。

ずいぶん世の中も変わったものである。われわれが子供の頃は、アメリカやブラジルなどへの移民や、外交官貿易商など仕事で外国へ行く人はあっても、観光で海外旅行をする人は、全然と言って良いくらい居なかった。外国はおろか国内旅行でも、一般庶民にとっては、滅多に出来ることではなかった。

牛馬や駕籠を利用する以外は、自らの足に頼るしかなかった昔はもとより、日本全国に鉄道網が張り巡らされるようになった昭和初期でも、余程の事情が無い限り旅行することはまず無かった。その当時の人が今日の世界を見れば、人の頻繁な動きと交通手段の多様さ、便利さに驚くに違いない。今回は道路、乗物などの変化を顧みることにする。

① 昭和初期の通学路

私は昭和初期の北九州小倉で幼児期を過ごした。当時は街中でも、乗用車はもとより、卜ラックに行き合うことも少なかった。道路も舗装されているところは無く、主要道路でも砂利が敷きつめられてはいたが、雨が降るとそこここに大小の水溜りが出来、用心して歩いていても、しばしば泥水を跳ねて着物の裾を汚したものである。

まして脇道や農道は、ちょっとした雨でも、たちまち泥濘(ぬかる)み、まことに歩きづらいことであった。小学校は戸畑の私立明治小学校へ通った。その通学路は、小倉と戸畑を結ぶ幹線道路の一つであったが、当時のことだから歩道・車道の区別も無く、勿論今時のような車線も引かれてはいない。道幅は今日の軽自動車がすれ違えるくらいはあった。しかしトラックを見かけたことはあったかも知れないが、乗用車に出会ったことは一度も無かったと思う。行き合う車は荷馬車か大八車で、たまに後ろの荷台に物を括り付けた自転車を見る程度の、まことにのんびりした通学路であった。

(註)大八車・代八車=八人分の仕事をする意から名付けられた荷物運搬用の大きな二輪車。

我が家を出てその道を戸畑へ向かうと、すぐ小さな峠にさしかかる。峠を越えて右手に雑木がまばらに生える丘を見ながら少し下ると、左手には水草の浮かぶ小さな溜め池があった。その溜め池のそばを通るとき、食用蛙の陰にこもった鳴き声を聞いたことが幾度かあった。

溜め池の少し先から、平坦な道がやや右に曲がり、わずかばかりの農家の佇む井堀の聚落に入る。

収穫期には、右手の農家の庭先に、蓆(むしろ)を広げ、籾を干したり、殻竿を振り回して脱穀する農家の人が見られた。いつの頃か、殻竿は脱穀機に変わり、農婦が脱穀機のペダルを踏むそばで、こぼれた籾を鶏がついばむ光景が見られるようになった。

(註)殻竿(からさお)=豆類・粟などの脱穀や麦打ちに用いる農具。竿の先に、更に短い竿を枢(くる)によって自由に回転出来るように付け、これを回して打つもの。

聚落を抜け出ると、その先は両側に田圃が広がり、正面に明治専門学校(現在の九州工業大学)の黒い森がよこたわり、その森の上に明専名物の時計台がわずかに頭をのぞかせていた。また左斜め先には握り飯を置いたような形の金比羅山が望まれた。

右へ中原方面への別れ道があり、その道に面して、赤い三角屋根の洋風の家が一軒建っていた。どんな人が住んでいるのだろうと思ったが、人の出入りするのを見かけたことはなかった。洋館の周辺には西瓜畑があり、夏には西瓜泥棒に備えて、高床式の見張り小屋が設けられていた。小屋の中に吊るされた蚊帳が、さわやかな夏の朝風にひるがえっているのが見受けられたりした。

その別れ道のところで、夏の日盛り、アイスクリーム売りのおじさんが、自転車を止めているのを見かけたこともあった。荷台に載せた真鍮の箱の中から、金属製のヘラで掬(すく)っては、小人の帽子のようなウェハースの器にアイスクリームを巧みに盛り上げて、農家の子供に手渡していた。荷台には日除けの小さな幌屋根が取り付けてあり、また赤い幟旗が立ててあったが、それには白字でアイスクリンと書かれていた。

その別れ道から先は、途中にIヶ所、高い松の木が二本立っているだけで、日陰となるようなところも無く、真夏の登下校には、何度か立ち止まって、額の汗を拭ったことであった。

小学校の外縁の雑木林が見える一枝まで来ると、道を跨いで左から右へ、八幡製鉄の鉱滓運搬線の道床が続いていた。当時では珍しい電気機関車が、長い貨物列車を引っ張り、時折甲高い警笛を鳴らして走り過ぎて行った。

小倉から明治小学校に通っていたのは、私だけであったから、話し相手も無く、そんな風景の中の一本道を、とりとめもない空想を描きながら歩いていたような気がする。考えてみると、ふわふわと空想を追いながら、漫然と八十余年を歩いてきた私の人生は、あの通学路の延長であったのだろう。

昭和十四年高校入学とともに私は小倉を離れ、戦時中、両親が大分県臼杵市に転居して、小倉を訪れることもなく月日が経過した。

平成三年、懐旧の思いに駆られて、この通学路を訪ねてみたが、沿道には洒落た一戸建て住宅やマンションが建ち並び、周辺の風景はすっかり変わり、どこが何処やらさっぱり分からない。今ではこの地にそぐわなくなった「井堀」の地名表示板によって、あの農家のあったのはこの辺りではと、わずかに推測されるに過ぎなかった。

ramtha / 2016年4月20日