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八.道路・乗り物・旅行など(④ 乗り合い自動車)

④ 乗り合い自動車

九軌の電車と並行して今日の路線バス(当時は乗り合い自動車と言っていた)が走るようになったのは、何時のことだったろう。定かな記憶は無いが、昭和五年前後のことではなかったか。

今日のマイクロバスほどの大きさがあったかどうか。
車体は当時のことだから、ボンネット部分が前に突き出した形の車で、乗降口は運転台の横の一つだったと思うが、電車と同様に運転手のほかに車掌が乗務していた。
初めは電車同様、男性の車掌であったが、何時の頃からか女性の姿を見るようになった。

この乗り合い自動車は、門司とか黒崎とか行き先が表示され経路は決まっていたが、停留所は無く、経路上で待ち受ける客が、進行中の車に向かって手を挙げると、どこででも停車して乗せてくれていた。まことにおおらかなことだが、利用者がそれほど多くない当時は、それで別に不都合は無かったのだろう。しかし利用者の増加に伴い、間も無く停留所が固定され、その表示板が建てられた。同時にバスの通過時刻表も掲示されていたことだろうが、そこまでは憶えていない。

♪ 田舎のバスはおんぼろ車 凸凹道をカタカタ走る・・・♪

と言うのは、戦後耳にした中村メイ子の歌だが、舗装されてない道を走るこの乗り合い自動車の振動も、相当のものであった。後部座席では、座っていても、前の座席の背もたれに掴まっていないと、飛び上がって天井に頭を打ちかねない有り様であった。

昭和十四年、福岡高校一年生の時、博多から八木山越えのバスで初めて飯塚に来た。当時、福岡~飯塚の路線バスは博多呉服町から出ていたようだが、八木山越えの道はまだ舗装されてなく、今日旧道と呼ばれている狭い九十九折(つづらおり)の坂道を上り下りしていた。

車がすれ違うのも容易ではなく、カーブにさしかかると、山際すれすれまで車を寄せて、対向車の通過待ちをしていた。また時には車体が道からはみ出し、あわや崖下に転落するのではと思われるような曲り角を廻る危険なコースであった。

この道はその後間も無く、軍用道路として付け替えられ、旧道より道幅が広くカーブの少ない今日の七曲り道路の原形が作られたという。しかし戦後も梅雨時など何度も崖崩れに見舞われ、その度に修理工事を余儀なくされた。

たしか全線舗装されたのは昭和三十年代後半のことではないかと思う。その後も八木山バイパスが出来るまでは、飯塚から博多へ出る唯一の幹線道路であったから、大型トラックなど通行車両も多く、傷んだ道路の修理が頻繁に行なわれていた。

戦時中はガソリンの人手が困難になり、木炭を燃料にするバス、いわゆる木炭車が現れた。車体の後尾に円筒型の木炭ガス発生タンクがつけられていて、ときに運転手が後部バンパーの上にあがり、先端の尖った鉄棒で夕ンクの中の木炭の塊を突き崩している光景が見られた。

戦争末期、私は軍隊に服務していたので、当時のことは良く分からないが、燃料は不足し、車体の調達も困難になり、バス路線の大半が廃止されていたようだ。その状態は戦後もしばらく続いた。

飯塚市は福岡市と密接な関係にあり、商店や会社関係者は博多へ出向く必要がしばしばあった。ところが飯塚から博多へ行くには、バス路線が廃止されていた当時、今日急行「かいおう号」の走る篠栗線も無く、原田廻りの国鉄に頼るしかなかった。しかし国鉄も戦争による荒廃で、運行回数も車輛も少なく、乗車制限をしている有り様であった。そういう事情から飯塚商工会議所は、会員の便宜のためマイクロバスをチャーターし、福岡行きの乗り合い自動車を毎日一往復運行していた。

昭和二十三年、麻生本社に勤務していた私は福岡出張のため、これを利用させてもらったことがある。この乗り合い自動車を利用する者は、前日までに予約し、当日は朝八時に飯塚商工会議所前に集合する。当時の商工会議所は今の長谷川整形外科医院のあたりにあったが、予約者が揃い次第出発し、福岡商工会議所前まで直行した。帰りは午後四時に、朝降車した場所に集まり帰飯した。利用料はいくらだったか、また、どのように支払ったかなどは憶えていない。

その後、私は炭坑勤務となり、博多へ出かけることも無かったので、このシステムがいつ迄運用されたか、また西鉄の博多行きバスが何時から再開したかなどは知らない。しかし、昭和も二十年代後半から次第に道路の舗装が進み、車体も改良され快適なバスに変身したようだ。

昭和二十六年本社勤務となってからは、福岡へ出張することが多く、その度に西鉄バスのお世話になった。まだ八木山バイパスなど出来ていなかったから、八木山越えのコースであったが、所要時間は急行で約一時間半、運賃が九十円という時期があった。その頃幾度となく上司の木庭さんのお供をさせられたが、その木庭さんが「博多行きバスは、一分一円だ。」と言われ、そんな考え方もあるのかと思ったことがあった。

先日、吉原町のバスセンターで、それを思い出し、係員に聞いてみたら、今では八木山バイパス経由で福岡天神町まで約一時間とのこと。道路も良くなりノンストップで走る特急はずいぶん速くなっている。一方運賃は当時の十倍の九百円となっていた。

私がしばしば利用させてもらった昭和二十年代後半はまだ女性車掌が乗務しており、国鉄篠栗線と交差する踏切では車を降り、踏切の安全を確認してバスを誘導していた。激しい雨のとき、ビニールの傘をさして、小走りに踏切を渡り、運転手に向かって手を挙げ合図していたが、その白い手袋姿が記憶に残っている。

今日のバスは冷暖房も完備して、冬の寒い日も暖かく、どんなに暑い真夏でも、涼しく快適である。何時からこのようなバスになったのだろう。戦前はバスを利用する機会も少なく、関心も無かったのだろう、暖房されていたか記憶が無い。戦後博多行きのバスを利用するようになってからは、冬は座席の下から暖かさが伝わって来ていたような気がするので、暖房設備はあったのだろう。

しかし冷房はまだ無く、乗客で混雑する車内は蒸し暑く、窓を開ければ前を走る車が巻き上げる砂埃をもろに被る有り様であった。

路線バスに冷房が備えられるようになったのは昭和四十年代も後半のことではないか。ひと頃は、冷房の効き過ぎに困惑するご婦人を見受けることもあったが、省工ネの叫ばれる昨今は、冷房設定温度を引き上げているらしい。こんなニュースを耳にすると、昔、車内で腕がだるくなるほど扇子を使っていた私などは、まことに隔世の感を深くする。

ところで、路線バスがワンマン化されたのは。何時のことだったか定かな記憶は無いが、その頃、某バス会社に勤務する友人から「これで車掌の身体検査をしなくて済む。」と言う話を聞かされたことがあった。

彼の話では、車掌は現金の出し入れをするので、着服していないか、毎日勤務終了時に担当係員による身体検査が行なわれていたという。下着姿になる女性車掌の検査は女性係員がしていたとか。その担当者が任務とは言いながら、同じ会社に勤務する者の検査は気が重いことで毎日が嫌になるとこぼしていたそうである。コスト削減、不正防止はさることながら、検査する者、される者、みんなが嫌な思いをしなくて済むのが、ワンマン化最大の収穫だと彼は話していた。

そう言えば、昔、炭坑では従業員が入坑するとき、ライターやマッチなど持っていないか検査する検身が行なわれていた。しかし、炭坑の検身はガス爆発などの災害防止のために行なわれるもので、暗いイメージは無かった。とは言うものの、喫煙常習者にとっては、入坑中八時間以上も禁煙を強いられるのは、相当につらいことであったに違いない。それだけに坑口を出て喫う最初の一服の旨さも、また格別であったようである。

その後、北九州市でも福岡市でも、路面電車が廃止され、今では路線バスは市内公共交通機関の主役として、庶民の生活に欠かせないものになっている。

なお、昭和三十年代からの高度成長とともに、日本中の道路に自動車が氾濫するようになり、都会では交通渋滞が激しくなって来た。そんなことでバス専用レーンが設定されるようになったが、あれは何時のことだったのだろう。

道路に白い走行車線を引くことは、車先進国のアメリ力から入ってきたものと思われるが、そのアイデアは日本人の発案によると耳にしたことがある。いずれにしても砂利道では、半恒久的な白線を引くことは出来ないから、道路が舗装された後、登場したに違いない。

ところで昨年(平成二十一年)誕生した民主党政権は高速道路の無料化政策を掲げているようで、その煽りを受けて、地方バス会社は経営困難となり、路線バスの縮小撤退を余儀なくされると伝えられている。

マイカーも運転技術も持たず足腰の衰弱した私など、これでは益々わが家に閉じ込められることになる。月に一度の病院通いのほか、私は是非とも外出しなければならないことも無いので我慢もしようが、頻繁に外出する必要のある老人は困惑するのではないか。

世界に向かってCO2二十五%削減を宣言し、大見得を切った鳩山政権はいったい何を考えているのだろう。まったく理解に苦しむ。

ramtha / 2016年4月16日