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八月十八日 「大学進学を諦める子は貧困児童?」

「貧困児童六人に一人」というテレビの声に驚いた。

昔のことならともかく、豊かになった今の日本で、そんなことはあるはずが無い。早速テレビの前に腰掛けて真剣に見ることにした。すると、高校三年生の女の子が自分の家庭の現状を話し意見を述べている。

「母親と二人の母子家庭で、母のアルバイトの収入だけでは生活が苦しく、大学進学は断念しなければならない。万人が均しく学ぶことの出来ない社会はおかしい・・・」と。
これにはびっくりさせられた。大学進学を希望する高校生が貧困家庭というのには、違和感を感じずには居られない。大正生まれの私には、貧困家庭といえば、かつて一世を風靡した橋田須賀子の「おしん」ほどではないにしても、子供を義務教育とされている中学までやるのが大変だという家庭を思い浮かべる。

ところが家内に言わせると、「それは古いよ。今じゃみんな大学に行くのが常識じゃないの」と。言われてみれば、概ねどこの子も大学に行っている。中退してプロの芸能人になって荒稼ぎしている人たちも、一度は大学に入っている。中にはいじめが原因か知らないが、四六時中家の中に引き籠もっている若者も居るが、それは例外だ。

考えてみると、経済水準の変化につれて貧困の内容も変化する。そして世の貧しい人々を支援するのが社会保障であり、日本の社会保障は世界一充実しているから、前述の女子高校生の発言は、正しいといわざるを得ない。

できるだけ当世風に考えてみて、ここまで到達したがまだ違和感が残る。何故だろう。その原因は二つあるような気がする。

一つは、日本国内では、それで通るとしても、今なお三度の食事に事欠くアフリカの人々や、大量の難民、避難もできず戦火の下を逃げ惑う人々の世界では、通用しないことである。

二つ目は、そもそも人類は、生まれた時から不平等である。健康優良児も居れば、私のような生まれつき病弱な者も居る。心身障害児も居る。しかしそれは自分の選んだことではない。俗に言う運である。
平等であるべきとするのは、理想主義者の幻想に過ぎないことではないか。

こう考えてみると、豊かで平和な日本の常識は、現実の世界からみると、決して常識とは言えず、この中に閉じ込もっていると、やがては人類共通の常識を失ってしまうことになるのではないだろうか。それが一番恐ろしいことではないか。心配でならない。

ramtha / 2016年9月10日