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一、新宿生まれの江戸っ子

尾見雄三は、家系記録の写しによれば、もとは信州高遠藩の藩主内藤家の家臣山田政保の長男と記されているが、幼名が山田惣次郎と言うことと、後に尾見家に婿入りしていることからすると、『長男』というのは記録の転記ミスで、正しくは次男であったのかも知れない。

いずれにしても.文政八年(西暦一八二五年)に江戸新宿の内藤藩の藩邸で生まれている。
ちなみに文政八年という年は、幕府が度重なる外国船の近海侵入に対して、いわゆる「外国船打ち払い令」を発令した年である。後に、北の防人(さきもり)を自らの使命として、松前藩に身を投じた雄三の人生を暗示しているかのようである。

記録には.「学を藩儒山下某、富永某及び松平讃岐守の家臣、赤井某等に受ける」と紀されている。生家の山田家が内藤藩で.どのような身分であったかなどは分からないが、藩儒について勉強させてもらっているところを見ると、まずまず並の江戸詰め藩士であったのではなかろうか。

信州高遠といえば、江戸城大奥の老女絵鳥が歌舞伎役者生島新五郎との情事の廉(かど)で流刑された木曾伊那谷の田舎町であるが、昨年(平成十六年)長女夫妻に連れられて、紅葉狩りに防れた。

高遠は桜の名所で、花のシーズンには、観光客でずいぶん賑わうとのことだが、普段は赤石山地を背にした山峡の静かな町並である。人影もまぱらな城趾公園の落ち葉を踏みながら、国元入りする親に連れられて、雄三もこの道を歩いたことがあったのだろうかと、思いを巡らしたことであった。

ramtha / 2016年10月30日