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四、樺太へ遠征、進入ロシア人を退去させる

松前藩に移ると、先ず中の間近習役を命じられ、一番隊に編入されている。近習役というのだから、殿様の側近くに侍って、雑用を処理するのが職務ということだろうが、今風に解釈すれば、新人社員の教育期間のように、藩独自の仕来りや慣習を身に付け、藩内の人間関係を知ることが主な内容であったものと思われる。

藩史略年表を見ると、松前藩では、弘化三年(一八四六年)、福山に酉洋砲術所威遠館を建設している。してみると、雄三は新参者として近習役とされてはいるものの、この砲術所で砲術指南をもっぱらしていたのかも知れない。

嘉永四年(一八五一年)、二十七歳のとき、根室頭役を命じられ、二年足らずの間、根室に在勤している。
根室は蝦夷地東端の湊町で、今までもしぱしばロシア人が来航し、ときには上陸し略奪することなど不法行為が行なわれている。根室頭役の任務は、そうしたロシア人の監視と在留邦人の安全確保が、主な仕事であったと思われる。

嘉永六年(一八五三年)、福山に呼び戻され、納戸役(なんどやく)を命じられている。

広辞苑の説明によると、江戸幕府の納戸方は、将軍の金銀・衣服・一皮の出納、大名・旗本以下の献上品及び下賜の金品を司ったようであるから、松前藩の納戸役も同じような職務内容であったことだろう。

しかし、その年の九月、ロシアの軍艦が、樺太の久春古丹(クシユンコタン)に来航上睦し、寨(とりで)を構え不穏な情勢にあるとの知らせがあり、雄三は即日、一番隊監察の職を奉じ、従士六十余名を率い出発している。昼夜兼行して十月三日、漸く宗谷に到達したが、海上はすでに凍結して、樺太に渡ることが出来ない。

晴れた日には宗谷海峡を挟んで、樺太の島影も見えるが如何ともし難い。逸る心を抑え、領地に宿言して翌春解氷の時を待つ。

翌安政元年(一八五四年)三月五日、結氷がやや溶け始めるのを見て、早漣宗谷を出発し久春古丹に赴く。岸辺の結氷を渡って現地に到達してみれば、すでに幕府の役人がロシア人と折衝し、寨を取り壊すことを約束させていた。

厳寒の荒海を渡る危険を冒して来てみれば、自分たちには何の連絡も無いままに、事は処理されている。深い挫折感に座り込む思いであったことだろうが、相手が幕府の役人では、その指示に従うほかはない。

在留邦人を守り現地に一月余り駐在する。五月十八日、ロシア人が寨を取り壊して退去するのを見届けて、ようやく福山に帰還した。

帰還後、雄三はその功績により監察に任じられているが、この時の経験から、彼は、対外折衝にあたっての、幕府と藩との連携の欠如について深い危機感を持ち、幕藩体制を超えた統一政府の必要性を痛感したことだろう。

後に、尊皇派のリーダーとして、松前藩を新政府支持に引っ張って行くこととなった原点は、ここにあったのではあるまいか。

ramtha / 2016年10月25日